現代詩の彷徨
ハァモニィベル
窓の外で詠う小鳥たちの可憐な魂の囀りに付き添われて夕陽が、いま、音と光といっせいに、開け放った窓から目を細めたくなるほど染み込んでくる。西欧風の苦い焦茶で統一されたこの書斎の奥のほうまで、燃え潤んだオレンヂが浸たすと、一番奥にある傷だらけの棚に置かれた古いアルバムも、降り積もった埃と共に一層懐かしい色へと染まるのだった。
その部屋の中でいま、何やら呻くような風が動いた――。
博士は今、最後の1枚に苦慮していた、学生が提出したレポートの評価に足の小指をぶつけたように。
学生の提出したレポートなど、たちどころに処理してしまう博士の天才をもってしても、否、否、偉大なる天才であらせられるからこそ苦慮せられたのだと思料する。[現代詩の口語訳]の比類なき権威として、多忙を極め続けながらも、なんと、なんと、尊いことであろう、博士は僅かな1阿頼耶ほどの手抜きも、微かな1阿摩羅ほどの妥協すらも良心がゆるさぬ性格(たち)である。今回、学生たちに課した課題の評価は、至極、至極、簡単なもののはずだった。課題は、ただ、単に、現代詩を創って提出せよ、と、ただそれだけだったのだから。それが
それが、一人の学生が提出してきたこの[詩と称するもの]が、天才である博士を、否、博士の天才を、さらさらと光を溢(こぼ)す夏の夜の太陽のような博士の叡智を、手術室でケツを突き出す辛子色のプードルのように悩ませていた。
今、博士の眼下で睨みつけられている、机上に置かれた薄いA4用紙一枚の難問とは、下のような学生のレポートなのであった。
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〔 学籍番号 13135655 所属 文学部 現代詩学科 氏名/ 濃 霧人 担当者/ 風 博士 〕
(現代詩) 『失われた名著』 濃 霧人 作
問:次のテクストを読んで、下の設問 a に答えなさい。
U・S・オドヮーヨ『現代詩という言語障害』、D・マカッシエ『現代詩はいっそラテン語で書け』。
この二つの名著が出版された時、両著に共通に示された一つの認識が、騒然と物議をかもしたのは、次の点であった。曰く、
そもそも、詩は文学であろう。文学とは言葉の美術であることを否定できない。ならば、言語美術が言語障害であること自体が既に、現代詩を文学にしない。(『現代詩という言語障害』4章,346P)
それは、哲学ではありうる余地を遺してはいても、読者が読んで首をひねるものが何で文学なんであろうか。前衛芸術という特別切符をもらって、文学の片隅にかろうじて小さな席を許される、そんな状況を現実に示してはいないだろうか。しかし、元来、詩とは文学の中心に、文学の核心にあるべきものなのではないのか。(『現代詩はいっそラテン語で書け』2章,第7節,284P)
勿論著者たちは、言語障害自体を差別などしていない。それどころか、むしろ辿々しい表現が思いの強さを伴って、その困難と闘う姿・行為そのものが感動させうることも否定しない。だが、それを積極的に好んで行うギルドチックな魚眼の営みを、たとえ、「浮遊するシニフィアンによる世界の編み変え」などという美名の元に置いたとてそれは、精神療法上の作業結果が、偶然生みだした名作をシニフィエとするにすぎない。さらに、そんな理屈の蛇口を捻れば、ただの暗号文だって立派な詩としてお勝手に流れ出すというものだ。
先の2つの著作で、オドヮーヨとマカッシエが述べている内容は概略こんな内容である。だが、こんな刺激的なことを書くには、原文を正確に引用する必要がある。そのために、今、本棚をかき回してみたが、どこへいってしまったのだろう、何度探しても見当たらないので作業が先へ進まない。資料が確認できるまで、この原稿の発表は控えておかねばなるまい。掌の傷から熱い涙をこぼしてしまったら、ふたたびあの鐘の音を聴きながら、「T」*と化してサラサレタまま、もう泣くにも哭けないのだから。
(*註: 「T」=T字形の刑の人=教会にあるイエス像のこと)
設問 a:上のテクストで紹介された二つの著作の共通認識を受けて創作された 一行詩はどれか、A〜Dの中から選べ。
A. 暗喩なき明快な文は詩ではない。大衆への反逆これこそ詩!
B. 現代芸術というのは、その全てが哲学の表現だ、は一理あるが、哲学を表現した猟奇殺人も芸術なのか、彼女の失敗した料理さえも美だというのか。これはもう一行ではない革命。だが、美とは星の数ほどの多様な光の闇
C. 詩人しか読めない「詩」の脱構築の脱構築の脱構築
D. 詩こそ文学と胸を張れない現代詩は哲学にすぎない
※ 注意。これは第一行からこの上の最終行までで 一編の詩です。
〔 学籍番号 13135655 所属 文学部 現代詩学科 氏名/ 濃 霧人 担当者/ 風 博士 〕
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博士の額に、わずかに汗が浮かんで見えるのは私の気のせいであろう。言葉を肉体とする博士に限ってありえないことだ。懐の広い風博士は流石、その道の大家、現代詩の化身とも称される方である。一流の詩人でもあり、批評家でもある音に聞こえたその評判を裏切らず、世の凡庸な感性の束が、狭い視界の硬いヘルメットをつけたまま、棍棒を振りかざすような愚とは無縁で、眼光鋭く、「きわどい形式ではあるが」と前置きしたうえで、 ・・・・そこで、おや、待てよと、ここで紹介された2冊の書物を確認しなくては、と思い立ち、あらゆる詩の書籍が揃った書斎の棚を探し始めたのだった。
風博士はいつもそうであるように気狂ともいえる奇矯さで、しかし独特のリズムをともなった作業へとりかかった。
膨大な書物をちぎっては投げるように、これでも無い、これでも無い、と後ろへつぎつぎに放り投げ、まるでゲラゲラ笑うように口元をゆるめた分厚い本たちが、次から次へと宙に舞い上がるジャグリングの嵐舞を、当の博士は一向気に留める様子もなく、一心に目的の本探しに夢中である。そのリズムと、言い知れぬ不可解な余韻が何か日常でない不条理までもこちらに投げつけてくるが、博士の方は探せども探せども、楽にならず、目当てのモノはまったくみつからない様子で、そのうち、よくよくよく見たら!風博士の姿自体リズムの他はどこにも見えない。