美人慣れ
小川 葉

 
 
秋田に来てはや二年。気がつけば、すっかり美人慣れしてしまった私がいる。逆に言えば、美人慣れするには、二年も要するということである。これはたいへんな試練である。
美人を見ても動じない。読者のみなさんは、それを残念なことに思われることだろう。しかし、そうでもないと、秋田では生きていけないのである。実際、私は美人のせいで、死にかけたことがある。
秋田に来た頃、やはり美人が多いと感じた。それは、たまに美人が目の前にあらわれて、おっ、となるような数ではない。そこらじゅう、美人で埋め尽くされているのである。私はあの世かと思った。たまに美人がいて、おっ、と鑑賞する分は良いものであるのだが、数が多いと、それは鑑賞というよりも、作業に近く、オペレーション、しかし悲しいかな、男の本能、その作業をしなくては、信号が赤に変わるまで、横断歩道を渡り切ることさえ出来ないという、たいへん危険な目にもあったのである。
(それから急ブレーキの音を聞き、万事休すの体験をした。運が悪ければ、あなたはこの恐るべき美人報告書を、読めなかった可能性がある。私は美人の恐ろしさを、あなたに伝えるために生きている。それほど美人とは恐ろしいものである。私は美人に殺されかけた。)
だから私は美人を避けた。美人から、逃げて逃げて、逃げたそこにまた美人。もはや美人から逃れることは出来ないと、さとったのである。
それからの私は強かった。なに、美人は景色のひとつだと思えば良い。道ばたに、美しい花が咲いている。毎年咲く花だ、つまらぬと、そのように心がけてきた努力の結実が、まさに今の美人慣れした、私の信念の原点なのである。
それほど秋田は美しい。しかし美しいものは、見慣れてしまえばただの景色である。ひとたび美人慣れしてしまえば、秋田には何もなくてつまらない、とさえ思いはじめてしまうだろう。
しかしあるのである。都会にはないものが。美人が、人が、生活が、気さくなふれあいが、会話が、思いやりや、やさしさが、人の苦しみ、悲しみを哀れむ、やさしい心、そのすべてが秋田にある。
ここで恐ろしくも美しい、秋田美人について、構造的に解説してみたい。秋田美人は、まず肌が違う。白く透き通った質感は、瀬戸物のそれに近い。夏が短く、冬は寒い、灰色の空におおわれ、日照時間が少なく、汗をかかなくなり、毛穴が退化したため、そのような肌になったのだと聞く。
そのような、肌の美人が、春の訪れとともに、街にふわふわと、虫のようにあらわれるものだから、この季節には、まるで妖精かなにかを見ているような気持ちになる。
毎年咲く花だ、つまらぬと、心がけてきたつもりであるのだが、この季節に私は弱い。
もうすぐ、桜が咲く。花とともに、たくさんの美人も、見ごろになることだろう。
この季節になると、しかたがないのだから、私も交通事故だけには気をつけて、一輪一輪、多くの花を鑑賞したいものである。
観光で、秋田を訪れる方も、どうか無理をせず、落ちついて、花を、美人を、鑑賞していただきたいものである。これは、私からの最終警告である。


平成二十五年 三月二十八日 記す
 
 


散文(批評随筆小説等) 美人慣れ Copyright 小川 葉 2014-03-16 19:47:07
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