権利
葉leaf




日々の忙しい業務に追われながら、私は空いた時間を見つけては公園に行った。その公園は決して規模の大きいものではないが、木々で囲まれ、遊具や砂場があり、ベンチもトイレもあった。道路から奥まった方へと伸びていき、入ってみると外から見た以上の広がりがある公園だった。昼間は母子がよく集まっていたので、喧騒を避けるため私は午後3時以降そこへ行くことが多かった。

公園は「入浴」する場所である。公園において人は陽射しを浴び、風を浴び、空間の広がりを浴びる。公園は都市が残した裸の箇所である。そして人は公園で社会的な被服を脱ぎ裸になるのである。公園は空間をむさぼる場所である。人は自らの体内が公園の広がりに対応して大きく拡散し、空間によって快く洗われ、体内が再び体内に収まるのを感じる。視線の向かう先もいつもよりも遠く、視線は長い行路を瞬時に辿ってはあちこちに反射される。

公園のベンチに座っていると、ときたま「このまま動けないんじゃないか」と思うことがあった。この生活の傍流には鉤のように人を引っかけてしまうようなところがあり、しかも普段の仕事と公園にいるときのどちらが傍流だか分からなくなる。何もかもが傍流の位置に整頓され本流がどこにも存在しないとき、私は本流に還るすべを見失い、ただ狭くなった疲労の角度をどこまでも開いていこうと無駄な努力をするだけである。

公園においてはすべてが取り返しがつかない。取り返しがつかないほど想像力が働き、取り返しがつかないほど自然と時間はその流れを明らかにする。木の枝が風に吹かれて葉を落とすとき、私はそこに創作の苦しみのようなものを感じ取ったものだった。枝の網の目から落とされるのが文章であるとするならば、木はいっぺんに葉を落として創作の快楽を得ることはできない。葉は一部しか落ちず、残された葉は創作の際の語りえなかった部分のように思えた。またあるとき、上空に飛ぶ飛行機めがけて、私は想像の矢をいくつも放った。もちろん飛行機は撃ち落されなかった。矢は初め何本も発したつもりだったが、私の想像力が追えるのは飛行機へと向かう最後の一本のみであり、残りは頭脳が処理しきれなかった。

公園には一つの権利がある。それは自由権である。公園においては自由権が保障されていて、生活において自由を失った人は公園に向かうことで自由を回復するのである。もちろん、自由権が保障されるのは公園の内部だけで、公園から出ると人は再び生活の強制の中に組み込まれる。憲法は人々に表現の自由や信教の自由など様々な自由権を保障した。それは他者からの干渉を受けない権利である。公園において、人は、空間を浴びたり傍流にはまり込んだり想像力を働かせたりするにあたって、世界からの干渉を受けない。もちろん他者からの干渉を受けない。世界からも他者からも無からも干渉を受けず、そこに一つの流体的な夢を咲かせるのが公園という場所である。


自由詩 権利 Copyright 葉leaf 2014-03-05 05:26:37
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