夜更けの紙相撲・2014.2月
そらの珊瑚
私は気のいいおじさん(夫)と暮らしている。
そのおじさんは、マネッジメントで有名になったおじさん(ドラッガーさん)のこと信奉しているようで、夕食のあとのちょっとした時間は、おじさんがおじさんのことを話す時間になってしまった今日この頃。
ドラッガーさんの本を読む気になれない私は、気のいいおじさんのフィルターを通して、有名なおじさんの理論をきくわけである。
その中の話で、ドラッガーさんが小学生の時、先生が生徒らに向かって
「あなたたちは何によって覚えてもらいたいですか?」
という質問をしたそうである。
あたりまえだと思うが、それに答えられる生徒はいなかった。
先生は
「今はそれでいいのです。でも五十歳になったとき、それに答えられるようにしてください」
という趣旨を話したという。
今よりだいぶ平均寿命が短かった時代、おそらくその頃の五十歳は今の八十歳くらいではないかと思う。
人生押し迫った頃、自分のことをどんな風に覚えていてもらいたいか、それはそれまでどんな風に生きたかということと無縁ではないだろう。
私の実家の前に石屋があった。そこのおじさんがいつも水飛沫の中、大きな音をさせて墓石を機械で磨いているのを見るのが好きだった。
石屋の作業所には扉はなく、あけっぴろげだった。
春は公園の桜が舞い降りる中、おじさんは石を磨く。
夏は蝉のやかましいまでの鳴き声を浴びながら、おじさんは石を磨く。
秋は柔らかくなった陽射しの中、おじさんは石を磨く。
ただ、ひたすらに。頭から雫をしたらせて。
冬はどんなにか寒かっただろうと思うけれど、寒い日こそ石が美しく見えたのは何故だろう。
その石は地元で採れる小松石という名前だったと思う。
先日岐阜県にある明治村で移築された夏目漱石の住居を見る機会があった。するとその庭に根府川石で作られたと書かれた庭石があった。根府川石もまたふるさとの近くで採れる石である。
私は瞬時におじさんのことが頭に浮かんだ。その後その座敷で琵琶の演奏を聞かせてもらいながら、私は石を磨いていたおじさんの顔をしみじみと想った。
石屋のおじさんは私が中学に入る頃、白血病を患い入院した。一度だけ母につれられ、病院へ見舞った。
おじさんは個室の日当たりのよいベッドの上で
「よく来てくれたねえ」
と笑った。やたら元気の良いおばさん(おじさんの妻)が林檎をむいてくれた。何か話さなくてはと焦りながら、意気地のない私は何も言えなかった。そのことを漱石庵で私は悔やんでいた。
おじさんはすっかり乾いていて、生まれて初めてその時、私は死というものを意識した。
しばらくしておじさんは亡くなった。今の私よりたぶん若かったのではないかと思う。お子さんはなく、先日帰省した折には、おばさんが庭で洗濯物を干していたのを見かけた。
ドラッガーさんのように世界中の人に覚えてもらえなくとも、誠実に生きたという様はきっと誰かに覚えてもらえるものだなあと思う。
ドラッガーさんへ、私は死ぬまで言葉を磨いていきたいです。
おじさんの磨いた墓石は顔が映りそうなくらいポカピカだった。あれから何十年かの時を経て、どこかの墓所で誰かの名前を刻み続けていることだろう。
生きた、ことの証として。
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