虚構
葉leaf




青春は少年時代の狭苦しい熱をいつまでも温存している。光に満ちた限られた視野のもと全力疾走する衝動は、青春を迎えた若い人々の血液の中に一定濃度で存在し続ける。若者は少年のように庇護されたいし、少年のように傷つきやすい。愛への癒着から自立へ向かい、傷つきながらも傷を癒して皮膚を厚くしていく過程が青春なのである。青春を生きる人々は、同時に少年時代をも生きている。

青春はいつでも晩年に成り変われる。少年的な行為と闘いに疲労した若者は、時折すべての存在の陰に死を認め始める。何もかもが疑わしく、全ての生命がもはや仮象であり、本当はすべて死んでしまっているかのように思えることがある。実質などどこにも存在しない。人を愛することも人をけなすことも、儀礼にすぎず誠実さなど全く失われているかのように思えてくる。絶望することすらできずに、暮れゆく世界の中老いてゆくわが身に偽物の悲しみを寄せるのである。青春を生きる人々は、同時に晩年をも生きている。

青春はときおり老年の装いを見せる。もはや死は確定してしまった。若者たちの楽しそうな談話をしり目に孤独に思索にふける。もはや若さを完全に失ってしまい、若者たちの輪の中には入れない。輝かしい連帯、輝かしい親和から疎外されたところに、ただただ恐怖だけを感じて死の重さをかみしめるときもやってくる。青春を生きる人々は、同時に老年をも生きている。

青春が少年時代にも晩年にも老年にもなりえるのは、青春が一つの極めて豊かな虚構であるからだ。それは生きられる虚構であり、作り物でありながら切実で、真実を指し示し続ける浮遊物である。生と死が著しい強さを保ちながらめまぐるしく交替していく中で、その循環に耐え続けるためには、青春は虚構にならなければならない。青春は唯一の実体を持たず、何物にでもなりうる可能性を維持しなければならないのである。唯一の人生でありながら、可能的に何物にでもなりうるということ、それは虚構においてしか実現されない。かくして青春は生きられると同時に物語られるし、苦しまれると同時に捏造される。生と死が虚構のテクストの整合性の中で一点に凝縮されるとき、そこに青春の真髄があるのだ。


自由詩 虚構 Copyright 葉leaf 2014-03-02 06:45:56
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