痕の上に立つ人
葉leaf

 詩を書く人は何かの痕の上に立っている。何かと闘うわけでもないし、何かと妥協するわけでもないし、何かと和解するわけでもない。その「何か」はもはやそこには存在しないのだ。しかしその「何か」の痕はくっきりと残っていて、詩を書く人はその「上に立つ」のである。つまり、何かの痕に支えられながらも、何かの痕を踏みしめる行為が詩を書くという行為なのである。
 痕跡は、喪失の痕跡かもしれないし、獲得の痕跡かもしれないし、流れの痕跡かもしれない。親しい人と別れたあとにその人の痕跡が残る。新しい仕事についてスキルを身につけその痕跡が生きる。自然の姿に感動した心の流れの痕跡が残る。人が踏みしめている大地にはたくさんの痕跡がネットワークをなしながら大小さまざまな形をして存在していて、人はその痕跡に細かな根を伸ばしていくのである。
 例えば孤独が詩を書く人の必要条件のように言われることがある。あるいは傷が詩を書く人の必要条件のように。だが孤独も傷も、数多ある痕跡のうちの相対的な一部にすぎないのである。孤独は、誰かと関係を結びたいという心の流れが常に挫折したその流れの痕跡である。傷は、自らの存在に欠損が生じたその欠損の痕跡である。同じように、当たり前のように生活するということは家族関係、近所関係、友人関係、社会関係などの絶え間ない獲得であり、その獲得の痕跡が生きていく。また、心を動かすようなできごと、例えば新しい仕事が首尾よく見つかり職場で自分の功績が認められる感動、その心の流れの痕跡もまた詩を書く上でとても重要なものになるのだ。
 詩を書く上で大事なのは、多種多様な痕跡を自らの大地に残すことと、さらにその痕跡をしっかり踏みしめることである。例えば若くて経験の浅い詩人はまだ人生の痕跡をそれほど多く持たない。また年老いて安逸に流れてしまった詩人は痕跡にしっかり足を降ろすことを忘れてしまっている。そうではなく、沢山経験を積むということ。これは喪失だけではなく獲得や心の忙しい流れ、何から何までである。そして、常に痕跡の上でしっかりと足を踏みしめていること。物事を単純化しすぎたり、注意深い洞察を忘れたりしないということ。
 詩を書く人は常に世界に遅れているし、自分の人生に遅れている。だから完全な実況中継は不可能だしうまくいかない。人生はすべて痕跡として詩を書く人の中に残る。だが、痕跡であるからこそ異化するだけの距離が取れるのである。詩を書く人は常にすべてを失っている。なぜならすべては痕跡であるからである。と同時に詩を書く人は常にすべてを得ている。なぜなら痕跡はちゃんと残っているからである。この喪失と獲得のはざまにあって、傷つくことも舞い上がることもなく、地道に根を下ろすということ。そして根の下ろし先をたくさん確保するということ。詩を書く上でこれが大事なのではないだろうか。


散文(批評随筆小説等) 痕の上に立つ人 Copyright 葉leaf 2014-03-01 17:39:09
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