掌編「悪夢」
イナエ
むかし、ぼくが田舎で少年をやっていたころ、野性の動物が家の周りを彷徨いていた。畦を通れば、蛇が逃げ、イタチやムジナに出会うことも、珍しくはなかった。イノシシは畑の作物を喰い荒らしていた。雪の日には山からシカが人里におりてりてきた。
なかには気配だけの生き物もいて、一人で深い藪の中や山林に入って行くと、どこからか現れ、ぼくを取り囲み、さわさらと話しかけてきた。耳を澄ませば、何も聞こえないのだが、歩き始めると追ってくるのだ。
ダム湖の上流へ一人漕ぎ上ったときなひどかった。碧色の淵の底からじっと見つめる眼を感じて、水遊びしていたこどもが、カッパやカワウソに、引き込まれたという話が、真実味をおびて思い出され、急いで漕ぎ下った。今思えば、大人たちから離れて、一人遊びする子どもに、危険を知らせる天の眼であったようだ。
そのころ、村の中では、どこかに大人の眼があった。農閑期といわれる時機でも、田の草を取っている人や、麦踏みをする人たちがいた。子どもたちは群れて過ごすことが多く、一人でいる時間は少なかったのである。
長い、都会生活のあと、再び村に戻ったときぼくの見たものは、舗装された農道に仕切られ、行儀良く並んだ四角い稲田だった。遠くの集落まで、見渡しても、人影はなかった。ところどころに赤い帽子の給水バルブが立っていた。農民の悲劇を語る水争いなど昔のことで、今では、どの田も給水管が配備され、バルブを開ければ必要なとき必要なだけの水が流れ出すのだ。
* * *
まるで、田の番人のようなバルブを見ているうちに、ぼくの夢想が始まる。
山間に巨大なドームがいくつも見えてくる。中には人工太陽の光にあふれ、水耕栽培の棚がいくつも階層になって広がり、丈の短い稲が豊かに実った穂を垂れている。
工業化する農村。野菜がハウスで生産され、蜜柑が温室で生産されるように稲もドームで生産される。風力と太陽光を電力に変えて、水と温度を管理も容易であった。年中管理された土地は二毛作三毛作も夢ではない。生産高の効率化を考えれば、土地は二一世紀の農場の三分の一か四分の一で足りる。余剰の土地は野生動物に解放できる。風と太陽光が豊かならば、平地に工場作る必要もない。地上に作る必要もない。人間が地下に潜れば、野生動物とテリトリーを争う必要もないではないか。
動物である人間が、生き物を喰うことは止められないと知ったとき、人間に喰われるための動物を作りだした。足のない豚、巨大な乳房の乳牛。卵巣だけの鶏などなど。
今では、人間の領域は地下になり、生物たちの食物輪廻から抜け出した。ここの動物たちは、人間に喰われるために成長しているのだ。稲や麦がそうであるように…。一生懸命に生きている野生動物たちの、食をめぐる争いの外にいて、ただ喰われれるためにだけ生きている幸せ、彼らの究極の願いは、人に美味といわれることに違いない。これを残酷というならば、食をめぐる争いの中にいる野性動物たちの行為はどう説明するのだ。彼らは、何を願い、何を求めて、生きているのだ。いつ、他の動物の食材になるかしれない不安のなかでひたすら生きている、生きることの他に目的はあるのか。少なくとも、ここの動物たちには、生きる目的がある。
すべてが管理された地下の世界。水も光も熱も、野性から隔離された人間のための世界。人間でさえも、この社会で存在理由を失えば、分解され肥料になる。ここではそれを定年という。人類繁栄のための人類が選んだ方法だ。
先ほどから、人型ロボットが、ぼくの横で、地上を見ることをすすめている。ロボット。ここでは、人間は働かない。すべての作業は、それぞれ専門化されたロボットが行う。子育てするロボット。人間のための新しい食品を開発するロボット。最近、詩を作るロボットが、学者ロボットたちによって、開発されたときく。しだいに狭められていく、人間の価値、生きる目標、矜持。定年を心待ちする人が密かに、しかも、確実に増えてきている。今後、ロボットたちは、どのような対策をたてるのだろう。
隣にいるロボットは、明るい微笑みを浮かべた。これは早く地上の姿を見ろという催促なのだ。これ以上彼らを待たせると、分解室へ連れていかれそうだ。定年を前にして、ぼくは地上に出ることを許されているのだ。この機会に地上の様子をぜひ見たい。
* * *
山頂から眺める風景は、かつて、人間が野生動物だったころの郷愁をわきたたせる。はるか下方の広い草原を、山羊が群れてる。大雨の都度、流域を変える川が、ゆったりと草原を横切っている。
群れていた山羊がいっせいに駆け出し、数匹の犬の群れが追う。ここでは、喰うための殺戮が繰り返されているのだ。仰いだ空に、犬鷲がゆったりと舞う。ぼくは急いで地下に下りた。ここで、獣たちの餌になるわけにはいかない。すべては人類繁栄のためだ。
ロボットが、エレベーターで下りたぼくを、にこやかに迎え、消毒室に案内する。ぼくが、人間の形をしていたのはここまでだ。 完