音楽
葉leaf

大学生になってCDプレイヤーを買った。私が主に聞いたのはバッハやモーツァルトなどのクラシックだった。勉強に疲れた夜中、部屋を真っ暗にして目を閉じて音楽だけを聴いていると、まるで自分がどこでもない場所に浮遊しているかのように感じたものだった。あらゆる方角も高度も角度も無効である抽象的な空間に、私は身体から解き放たれて混じり合い、音楽の包括的で繊細で激しい空間的広がりに没入するのである。その後様々な音楽を聴いたが、中でもマーラーやヴォーン・ウィリアムズがお気に入りだった。音楽はその体系的な造りによってどんな哲学でも語ることができるように思えたし、その運動によってどんな物語でも紡ぐことができるようにも思えた。もちろん、哲学や物語以前の詩を最もよく表すのが音楽の細部であった。音楽は流れる。それは過去の流れでもあり現在の進行でもあり、さらには未来の先取りでもあった。

大学を出てから今度はロックをよく聞くようになった。ロックはとても伝わりやすい。クラシックほどの包括性はないが、狭い通路を疾走するような切実さとスリルがあって、自分の身体までリズムで切り刻まれていくかのように感じた。何よりロックは人間の負の側面を解放するものだった。社会常識から隠蔽される衝動や不条理、絶望や憤怒、停滞や悪意、そういうものが泳げる大海を生み出し、社会の健康的な抑圧を迂回して人間の真の姿を暴くものであった。また、ものによっては限りなく前進的で肯定的なエネルギーに満ちたものもあり、音楽の鼓動がじかに伝わってくるのを感じた。

音楽は私の空洞に向かってくるのだが、初めそれは音ではない。それは金色の雪であったり顆粒状の炎であったり透明な魚であったりする。それが伸縮自在にめまぐるしく形と色を変化させながら私の肌を覆い尽くす。私は音楽によって演奏される一つの楽器だ。管楽器のように息を吹き込まれ、弦楽器のように爪弾かれ、打楽器のように叩かれる、一つの楽器である。音楽が鳴っているとき、私の身体が音楽によって演奏されているのである。私は著しく冷たい空の内側でダンスする。著しく柔らかい地下の化石と共に身を悶える。哲学は解釈され、物語は解体され、衝動や不条理さは論理を獲得し、絶望や憤怒は昇華される。私は音楽を聴くのではない。音楽によって演奏されることにより、すべてを織り直していくのである。


自由詩 音楽 Copyright 葉leaf 2014-02-27 05:47:07
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