ホールケーキ、2/22のこと
はるな
二月末には毎年わたしの誕生日がある。ことしは、実家にいるので、そして妹も帰ってくるというので(姉は仕事のため帰ってこられないのだという)、安心してホールケーキが買えるわねと母が笑った。
妊娠のためと、運動不足のために増えすぎた体重のせいで、ひざのうらに水たまりのようなのができてしまった。また、背中にも太ももにも脂肪が乗ってぼこぼことみにくいさまである。八か月間ずうっと眠っていたわけでもないのになぜ気づいたらこんなありさまなんだろうと驚き、みにくい。象みたくかたくなった足を母がマッサージしてくれる。すべらかでじわりと温かい、日によってちがう成分をあわせた油をつかって。わたしは、心地よくそれを受け止めながら、それでもどうしても捨て去ることのできない緊張感を注意ぶかく体のなかへ隠している。三日つづけてもみほぐされた水たまりは、すこしちいさく、やわらかくなっている。
宝籤は、いま一歳半を越して(なにしろ捨て犬だったから、実際に宝籤が生まれてからどれほどなのか性格にはわからない)、これ以上は大きくならないでしょうと言われたもののみるたびにたくましくなる。同じ家に住んでいてもなお。頭をさげて水を飲むときの、肩から前あしにかけてのごつりとした線。けれども家のなかにいると宝籤は安心しきってしまって、外にいるときのようにからだを丸めて尻尾をぐるり巻きつけるやり方でなくて、四本の足をゆるくのばして、尻尾もてきとうにおろしてソファで眠りについてしまう。そうなるとこのところはとくにわたしへの警戒がまったくなくなったのか、足を触ってもまぶたを撫でても起きない。わたしはこんなふうに警戒なく眠る動物を見るとなぜか夫を思い出すが、宝籤は抱きしめてくれないのでこちらからぎゅうと抱き寄せる。そうすると撫でられるのは好きだけれども抱かれるのは嫌いな宝籤はたちまちみぶるいしてソファを降りて行ってしまう。
このあいだは十代の学生時代をすごした友人が二人でうちへ来てくれた。中学生ぶり、と言いながら和室へ上がって思い出ばなしなどをする。わたしたちはみんな同いどしで、同じ制服を着ていた。くつしたまで同じものを履いていたのだ。それはとても奇妙なことに思える。たばこを吸うことやひとを好きになることやセックスをすることや、歌をうたうことや詩を書くことが、そういうことのすべてが恥ずかしかったころ。いつの間に恥ずかしくなくなったんだろう。笑ったり泣いたりすることが、今よりももっと恥ずかしくて窮屈だったし、できなかった。と、思っていたのに、笑ったり泣いたりばかりしていたと評されるのは不思議なことだ。世界がほんとうにさわれる、やさしいものとしてあることなんて想像もしなかったころ。
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