川柳が好きだから俳句を読んでいる(9、安井浩司のこと)
黒川排除 (oldsoup)

 違和感が好きだ。じぶんの居場所をグラグラさせてくれるからだ。違和感をそのまま受け止めきれず、じぶんの中で正当化するとき生まれる摩擦熱で焼かれそうになる感覚がすごく好き。おれが俳句を好きでいて、かつそのスタンスから川柳というジャンルに引きこもっているのも違和感が好きだからで、一方は季語を重んじ非常に堅苦しく見える俳句、一方はサラ川なんかに使われてペラッペラに軽く見える川柳、その狭間でどちらに立つかを表明することが吐き出す違和感、同族嫌悪、互いに対するしつけみたいな束縛、その溺れた人間みたいな手つき、無意味さ、その全てが好きだ。そこんところをかいつまんで話せば季語とかいちいちうるさいジジババのいうことを完全に無視できるというだけの話で川柳サイドについてるということもあるんだけど、まあジジババは頑固になるとめんどくさいですからね、ともかく違和感が好きで、それはおれが作るのも好きだし感じるのも好き、刺してくるような違和感もゆっくり覆いかぶさってくるような違和感も。

 ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき

 安井浩司はゆっくり覆いかぶさってくる違和感だ。彼の前には四季がなく実際がある。現実があるのでもなく実際があるのであり、現実は拒絶されている。しかるにその拒絶された現実によく似た現実を実際として覆い被せているのだ。そこには白々しく隠された違和感がある。わざと見えるように隠された違和感があるにも関わらずそれは現実に見えるように塗られているのだ。だからそれは現実でなくて実際だし、実際は受け止めなければならない。実際に再現されていることではない、実際に起こっていることでもない、むしろ実際は起こっていない。拒絶の実体感を受け止めなければしょうがないというのが全体的な安井浩司の俳句の印象である。

 そしてそれは意図的なすり替えでもある。残念ながら安井浩司の各々の句集や全句集は(非常にお高いので)持ってないためネットで探しうるだけの俳句の三、四百を見ているに過ぎないが、しかし固まった場所に「〜せば、みな……」という言い回しが三回もある。もちろん時期的なものと音声的な好みもあるんだろうけども、いずれもそのトンネルを通ってまったく別の場所に出ている。場面がまったく切り替わっている。その間には確かに断絶が横たわっている。しかし安井浩司はそこにつながりがあると言っているように思えるし、おれはそう確信もしている、そうだ、このすり替わりにはたしかに勢いがあり、その躍動感が見えない噴出を伴って目の前に急に現れているんだ。上記の句はその最たるもので、小屋の破壊がその交通にはずみをつけているというわけ。ではその断絶を煽っているものはなにか、それは句集の題名にあるような初期の青と赤の対立や、父と母の対立でもない、それらは真逆の性質を持っているが断絶しているわけでもない。では何か。クソだ。クソの噴出だ。

 沖めざす花の日蔭に脱糞して
 古春(ふるはる)や死前の飯と死後の糞
 野糞ひらき見れば中に心(しん)の種
 一枡の糞美しき冬の空
 老農ひとり男糞女糞を混ぜる春

 これが言いたかった。だって何の前触れもなくいきなり「安井浩司はクソの俳人だ」と言っても熱心な安井浩司ファンからぶん殴られるだけでしょう。確かに安井浩司はクソだよ、と冒頭に持ってくればインパクトがあったかもしれない、ギョッとする言葉だ、クソなんていうのはね、で安井浩司はそのギョッとする言葉を一番巧みに使う俳人だ。この内一番最初の脱糞は極初期に見られる俳句で、それからは完全に糞が出ている。別に安井浩司が糞を出したシーンを想像してもらう必要はないが、これがおれの感じている最大の断絶なんだ。人間からどうしようもなく出てくる糞、人間から完全に排泄される糞と人間そのものとの間には、明らかに強いマイナスイメージの断絶がある。糞は汚い、下品、エグい、気持ち悪い、多くの人間は直視に絶えないだろうし、直視どころかチラッとも見たくないだろう、それがじぶんのものでもだ。だがそれは確かにじぶんが出した、作ったモノだということも事実だ。ここに凄まじいまでの実際がある。こんなにひどい創造があるだろうか? だが現実には、フロイトおじさんの言うことを信じるなら幼少期には肛門期という期間がそれらの断絶を埋めていたはずだし、うろ覚えだけど日本の神話にも糞から生まれた神様がいたはずだ。それは芽生えた自我が断絶を作ったという見解を示すものであり、かつ、糞は紛れもない創造物だということをも示している。安井浩司が後期に至って国や創造という言葉にこだわりはじめたのもその実際を装うさらなる方向性を開いたからだろう、現にその糞と創造を結びつける俳句もある(厠から天地創造ひくく見ゆ)。

 死鼠を常(とこ)のまひるへ抛りけり

 だからおれは安井浩司が好きだ。糞が好きなわけではない。スカトロジーバンザイというわけでは決してない(信じて欲しいよね)。しかし安井浩司のことは徹底的に糞のひととして扱わなければならない。それは簡単に言うと覚えるのが簡単だからであり、複雑に言うと暴力を用いたいからだ。のちのち理解が迫ってくるとしても、方法がない限りとりあえず暴力をもってあたるべきだし、暴力は満足のいく結果をもたらしてくれる。力の限り暴れた結果襲ってくる疲労が無為であればあるほどそれは実感に耐えうるものになるだろう。そして暴力が味方し続ける限り、我々は糞に塗れた創造の中に美しさを口走る安井浩司を見なければならないのだ。


散文(批評随筆小説等) 川柳が好きだから俳句を読んでいる(9、安井浩司のこと) Copyright 黒川排除 (oldsoup) 2014-02-26 02:36:47
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