葉leaf


夏の夕方に訪れるあの湿った憂鬱は何なのだろう。世界がいつもと異なった網の目に組み替えられるような、あの憂鬱は。目を楽しませてくれていた植物も奇怪で滑稽なものに思えるし、耳を楽しませてくれていた蝉の音も耐え難いノイズに聴こえてくる。私と世界の関係が生み出す透明な球体に、へこみや着色をもたらすのが夏の夕方である。

幼い頃、夏の夕方になると、世界が滅びるのではないかという不安に襲われたり、遊び過ぎて両親に済まないという気持ちに襲われたりした。夏は自然の一つの高揚であり、その高揚が速度を持って濃さを増していく時間が夏の夕方なのだ。夏という自然のネットワークが、私との関わりにおいて大きく傾き距離を無遠慮に縮めてくるとき、私は憂鬱に襲われる。私と自然との関係がいくつもの地点に落とされていき、その間隙を夕暮れの金属的で酸性の光が無慈悲に満たしていくのである。

この夏の侵攻は一つの戒めである。すべてが滾り限りなく進行していく夏において、その限りない進行ゆえに深淵にまで到達してしまった世界と私に対し、空や大地に再び回帰するように戒めているのである。夏の夕方、世界と私は季節の規範を破ってしまい、自然を乗り越え自然の支配に対して反旗を翻す。季節を動かしている大地の法がそれを許さない。夏の夕方、多量の光を浴びて驕った人間に対し、大地は戒めを与える。それが夏の無遠慮な接近により引き起こされるあの潤った憂鬱なのだ。




自由詩Copyright 葉leaf 2014-02-25 02:54:55
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