ポエム派宣言2「わからないから○○」
佐々宝砂

私の詩(「ポエム」と銘打っていない詩)は、よくわかりにくいと言われます。詩の世界のひとが言うのではなく、詩の世界のそとのひと――私の友人や同僚――がよくそう言います。何がわからないのかと訊ねると、言葉が難しくてわからんと言います。私本人には、難しい言葉を使っているという意識はありません。ちょっと難しめの言葉を使ってしまったなと思うことはありますが、そういうときは言葉の意味がわからなくても詩を楽しめるように書いてるつもりでした。多少詩の詩らしさを損ねるのは承知のうえで説明的に書いてみたり、言葉の意味の「わかりにくさ」そのものが詩の面白みとなるように書いてみたりしているつもりでした。でも私の友人たちは「わからん」と言い続けました。

こうなってくると、私も「わからん」と呟きたくなります。詩を読んで「わからん」と言うひとたちは、いったい何が「わからん」のでしょうか。私は最初のうち、友人たちの言葉をそのまま受け取って、言葉の難しさがネックなのだと思っていました。でも、だんだん、そうじゃないんだと思えてきました。

詩の言葉は普通の文章の言葉と違います。「ポエム派宣言1」に書いたように、詩は、言葉そのものを読者に意識させるために、わざわざわかりにくく書かれる場合があります。意味が「わかる」ことを期待していない場合だってあります。詩が「わかりにくい」のは、ある程度あたりまえです。しかし、詩を読み慣れてないひとたちは、詩の「わかりにくさ」に慣れていない。詩を読んだら、普通の文章を読んだときのように意味がわかるはずだと思っている。本当は意味なんてわからなくたっていいのに。一見しても意味がわからないからこそ、言葉そのものに何度も立ち戻ること、それが詩を読むということなのに。詩を一読して「わからん」という人々は、詩の入口で鍵を手にしながら、鍵の使い道を知らないようなもの。

批評家ではないフツーの読者に、「詩を読み解け」の「作者の本意を探り出せ」のどーのこーのと要求するのは、実は酷な話です。「詩を読み解け」という要求は、「詩は読み解かないとわかりにくいものだ」という認識を前提にしています。詩は根本的に「わかりにくい」のだと知ってる読者は、詩がわかりにくくても「まあそんなもんだろう」と思っていますが、知らない読者は、「わかりにくさ」につまずくと「私がアホなので悪いのだろう」と悩んだり詩を放り投げたりします。

ここで「わからんヒトは読まなくていいや」と作者が放り投げてしまったら、話はおしまいです。読者の側は、すでに「わからん」と放り投げてしまっています。しかしコレでオシマイってんじゃなんだなあ、と私は思いました。私はあきらめが悪い――というか往生際が悪いもので。


そうそう、「詩がわかる」ってなんじゃい?と、根本的にしてヤバイ質問はしないでくださいね(笑)。私にはわかりませんので。おそらく、根本に根ざす問題には、答が複数あるか、あるいは答などないのです。私は、こうした難問に対しスパッと「わかりやすい」正答を放つヒトが嫌いで、そういうヒトのいうことは信じたくないし、そういうヒトになりたいとも思いません。「わからない」ときに「わからない」と言うことはひとつの権利だし、なにごとも「わからない」からはじめなくてはなりません。

「わからない」からはじめるということがどういうことか「わからない」かたは、橋本治の著作『「わからない」という方法』(集英社新書)をお読み下さい。私のこの文章はあの本にいくぶん影響を受けていますが、あくまで「いくぶん」です。むしろ高橋源一郎の影響の方が大きい。私は、高橋源一郎のミーハーな大ファンです。十数年ファンやってます。詩のボクシングのTV中継でぬぼーとした顔をさらしてるタカハシさんはあまりかっこよかないけれど、でもでも、『日本文学盛衰史』のなかで小説と詩と批評とエッセイを融合させ、ブンガクが生まれる(死ぬ?)瞬間にあげる悲鳴とも産声ともつかない声を最後の最後に描写してみせる、あのタカハシさんは、ホントーにサイコーにかっこよかった。不様で、みっともなくて、まるでなってないけど、かっこよくて、すてきだった。ああ大好きだわ♪タカハシさま。って、あーゆーオトコが私の好みだというだけかもしれません。なんしろ私、メガネ属性ですし(でも斎藤孝キライ。なんでだろー)。

そういや、批評家のミーハーなファンやってるヒトって、あまり見たことないような。ま、好きなもんは好きでいいじゃないですか。好きなひとの言うてることはよく頭に入りますから、「こいつの言うことわかんねー。キライだ(怒)」と思いながら読むよりは、「このひと好き♪このひとの言うことわかりた〜い(はぁと)」と思いつつ読む方が、効率よく勉強できます。そもそも「好き」が動機だと、勉強という気がしません。だってミーハーに「好き」なんですから、好きな批評家の意見を覚えたり理解したりすることは、グラビアアイドルのスリーサイズを覚えるみたいなもんです(絶対そんなことないって←影の声)。いや、好きな先生の授業には身が入るって言ったほうがいいかな(そのタトエならまだマシか←影の声)。

どこが詩の話なんだと怒り出すヒトがいるかもしれませんが、実は地道に話が進んでいます。詩の「わかりにくさ」は、詩が詩であるために必要なことかもしれないので、そこを改めるわけにはいきません。でも「わかりにくい」と敬遠されます。じゃあどうしたらいいのか? というわけで、前につながります。詩の読者の気持ちを、「わからないからキライ」から、「わからないけど好き」に持ってゆけたら、状況は変わるのではないか?


***

読者のみなさんは、「ポエム派宣言」が、難しい文章や専門用語に慣れない人々のために「わかりやすさ」を目指している、と思うかもしれない。しかしちがう。

たとえば、

「詩的機能は、to set toward the message as such によって特徴付けられるものである。詩的機能は、解読を支えるコードからの逸脱ないし組み替え、すなわち異化によってより効果的なものとなる。」

という文章があったとして、これがいったいなんの説明になってるっての? そこらへんのおべんきょできない高校生にきいてみてよ、全然わからんって言うからさ? こーゆーのこそ悪い意味での「わかりにくさ」のいい例。この手の、ジャーゴンの多い文章こそが、私から見るとアタマ悪そうな文章なのだった(前にどこかで書いたなあ、「ジャーゴン」という言葉こそジャーゴンだ)。

私は、自分のアタマの悪さが露呈しないように願いつつ、自戒しつつ、文章を書いているのである。


(初出:触発する批評/鈴木パキーネ名義)


ジャーゴン【jargon】
仲間うちにだけ通じる特殊用語。専門用語。職業用語。
転じて、わけのわからない、ちんぷんかんぷんな言葉。
[ 大辞泉…Yahoo!辞書]



散文(批評随筆小説等) ポエム派宣言2「わからないから○○」 Copyright 佐々宝砂 2005-01-17 04:22:14
notebook Home 戻る
この文書は以下の文書グループに登録されています。
ポエム派宣言(ポエム小論)