絶語の果て
渡邉建志

夢をみなくとも   軽谷佑子さん
http://hibariryouri.web.fc2.com/11/karuya.htm

4行が5つ小さく並んで、どこにも本当の意味での終止形がない(文法で言えば、「わからない」はそうだろう だけどmizu Kさんが指摘するように(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=285679)これは 、 が終わらないことをわたしたちに伝える――「結露する」はどうだろう 「生活」へかかる連体形ではないけれど、結露する、で終止する気はしない、延々と結露しつづけてその余韻のなかで「生活」と聞こえてくるように思われる)

動詞の終止がないとなれば、う音 でものごとが終わらずに、い音 や え音 でものごとがほうりだされることになる――あるいは名詞 

音のことばかり夢見ることが正しいことか、正しい詩の読み方か知らない  実際ぼくはいまこの詩の意味についてひとつも触れられそうな気がしない(そこにある音楽から自分の物語が始まるばかりだ…)この最後に現れる四行を読み終わったあと、ほうりだされて、そのあと無音―無韻のなかに聞こえてくるものは―見えてくるものは自分のなかの物語、自分の中に広がる映像

動詞があって、え音 で終わっていく 続いていく そう、「終わって「いく」(それは続いていく)」という感覚を今わたしは愛していて、そういう愛のなかでかってにこの詩の 離れ  をうつくしいっておもう  意味についての感想が何も言えなくて申し訳ない

わたしはわたしのなかのなぜ、をさぐりたくて、この詩のなかで、最も多いというわけではない え音 の改行に、空想のバトンを渡されたような気持ちになって、たとえば最後の 離れ のあとに本を閉じる。


一人の十五歳がいう ―

一人で部屋に籠もって勉強しているとき、何かしら空虚でやりきれない気持ちで胸がいっぱいになってしまうことがある。僕は何のために勉強しているのか。数学や理科を習得したところで、本当にかしこい人間なのか。

空虚感に襲われ、僕は本を開く。あるときは笑い、あるときは透きとおり、あるときは他人の苦悩を背負い、あるときは叶わぬ憧れを抱く。

そして本を閉じる。本を閉じると考えが湧き出てくる。それをノートに書きとめる。そうしているうちに、最初の心の虚ろさが、それが投げかけてくる疑問に対するはっきりとした回答は見出せないにしろ、だんだん晴れてくる。

勉強ができることが何の意味があるだろう。人間としての価値がそこにあるのだろうか。人間が考える葦なのならば。



(並べることが申し訳ないけれど)大好きな武満さんがいう ―

四月はじめ、思いもかけず病いの宣告をうけ、入院生活を余儀なくされることになった。これを与えられた機会と考え、纏った読書でもしようかと、枕頭に単行本や雑誌の類種々を積んではみたが、どうも手を出す気になれない。筋道を追い、人物の心理が綾なす複雑な糸をたぐるような小説の類は、特に、気分がのらない。
結局、イタロ・カルヴィーノの短編と、蕪村の句集を、それも、一行、或は、一句ずつ、味わうように目で追っていた。
たぶんそこには、意味が直ちに完結せず、つまり、因果関係の説明に費されるような文章ではなく対象への観察が精緻で深く、それでいて(或はそれだからか)こちらもかなり自由に、新たな思惟を展くことが可能なような言葉が在るからだろう。それは詩的な言葉である。(中略)
受動的行為であったはずの読書が能動的なものに変わる。その時、自己はこわれ、あらたな自分がつくられている。
読書の様態は、ひとそれぞれ、千差万別である。読書には、映画のように、必要とされる限定された時間というものはない。読書に費す時間は個別のものであり、その速度は一様ではない。時間をかければより内容が把握できるというものでもない。
私の場合は、大きな流れをたゆたいながら、不意に起ちあがる、杭のような言葉やセンテンスのひとつひとつと、その度に交渉をもちつつ、書物それ自体とは一見無縁な寄り道を楽しめれば、それは最も充足した読書(体験)と言える。
だが、そうした遊びをゆるしてくれる本は、そう多くはない。不思議なのは、内容の純度が高いほどにそうした精神のあそびを促しもし、またゆるしてくれることだ。


亡くなる7ヶ月ほど前の、新聞への寄稿。

何を書けばいいのかわからない。何を作ればいいのかもわからない。生きていることの価値が分からなくて死のうと思い続けた日々があった。かなり長く。なにも作れないまま日々― 長い夏休み、とわたしはよんでいた― を抜けて、わたしをひとに印象づけることよりも、想像のバトンをひとに渡したい、と今は思える。そのあと、わたしが書いたことと「一見無縁な寄り道」がそのひとにつづくなら、わたしが生きた価値はきっとある。(性急な結論。たぶん生きる希望はそんなに簡単に語れることじゃない。そんなに簡単に語れることなら、ひとは死なない。)

この詩のいちばん多い改行まえの い音 は機能としては え音 と同じはずだ。こなごなになり と みえたものはうせ の語尾は、おなじ連用形、おなじく次があると待つ機能だと思うのに、みえたものはうせ というあとに渡されるバトンのほうが、前者よりもつよく思われるのは、わたしが え音の音楽に、わたし側の理由で魅せられているからだけなのでしょうか。



無言歌 v   細川航さん
http://hibariryouri.web.fc2.com/11/wataru1.htm

なんどもあらわれる 
「て」
沈黙の中にバトンを渡そうとするのではなく、不器用に吃音のなかで、繰り返すから
読むほうが吃音の中に読みとっていこうとするようなかんじ
一方で血を吐くように、決然と断るように、血を吐きながら決然と断るように(それが詩人の通奏低音のようにわたしにはみえる)
指を切るのだという。わたしは、なぜ切らなくてはならないのかとおもう。指を切らなくてはならない理由がある。わたしには見えないけれどそれはある。確実に。そうでなければピアノを弾かないだろう。切ってしまったあとに茫然とピアノなど弾けない。

ここには君がいて、あなたがいる

一行目に現れるあなたは、七行目に現れる君だろうか? 夢をみることと、血を吐きながら周りを断ることが交互にあらわれるようにわたしには思われるこの詩のなかで、夢のような花畑にあなたはいる、そのあと決然とわたしは君に切った小指か薬指を送る――曖昧性はあなたが背負い、決然性を(この詩においては)君が背負うと言ってしまう(えるのだろうか?)と、あなたは あ音 でできていて曖昧だし、君 は い音 でできていて切りつけるような決然と、k音も含んで。

曖昧性と決然性は交互ではなくて並列なのかもしれないし、わたしはそう思う、決然とひとりになるから、曖昧と孤独になって、終わりに流れる音楽のむこうに流れる音楽のところまで行ってしまう。

あきらかに一番大切な言葉は と、 だ

同じ意味をもつ同じ言葉を繰り返しているのに、そのふたつを、「と」でむすぶ、それは雄弁であることから離れ、意味としての吃音となる。と、と訥々とともって、ともる向こうの理由を、雄弁になれない理由を、わたしは探しはじめる。

すべての終わりに流れる音楽
と、そのあとに流れる音楽

音楽。ほうりだされて、終わる、(わたしは想像をはじめる)
と、見せかけて「と、」― 終わらない。とても強く意味を込められた「と、」だと思う。終われない理由があったらしい。そして本当に終わってしまうのだけれど、名詞だから、やっぱりほうりだされていて。わたしたちはその音楽を、本を閉じて聴きつづける。

名詞で言い終わる。想像が始まる。待たれる沈黙が一音の助詞に終わる。驚きのように付け加えられた助詞にはたくさんの意味がある。


本日皆様 我々のこの最後のライブ……にっ
http://www.youtube.com/watch?v=GJIYZGs4iJs&feature=youtu.be&t=20s




散文(批評随筆小説等) 絶語の果て Copyright 渡邉建志 2014-02-01 14:56:57
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