ヴェネツィア
藤原絵理子

 夕暮れが近づいてくると,昼間あんなにたくさんいた観光客の姿も減って,運河のさざ波が落ち着きを取り戻してくるように見える.この町には都会にいるような物売りの姿がない.美術館の横の広場で,それも‘No Fakes’と書かれた看板の前で店を広げる偽ブランド屋もいない.暗くなると方向がわからなくなってしまうほどの複雑な迷路と,それを勝手気ままに分断する水路があるだけだ.
 溝.それを満たして他人との間を隔てる水.水は特殊な成分が溶けこんでいて,他人のものと混ざることがない.混ぜようとすると激しく発熱して蒸気を吹き上げ,致命的な火傷を負ってしまうのだ.

「そんなことは考えたことがなかったですね.私の見聞きしてきたものなんて,たかがしれてはいますが,その少ない経験の中に,そのようなことは見あたりません」
 白い仮面で顔を覆った男が言う.
「あなたには想像力はないのかしら.今の世界は想像力だけで成り立っていると言ってもいいほどですのに,実直な方ですのね」
 小さな白いビキニの女が言う.
 想像力…妄想は,手にあかぎれを作って農作業をする農夫の皺から目を背ける.あるいは,両手を油まみれにしながら働く工員の汗からも.
 白い仮面の男は,ムール貝のソテーをとても上手に食べる.オレンジ色の貝の身が,仮面に開いた口へ器用に吸い込まれる.そして仮面からはみ出した下あごが微妙に動く.その動作は動物的ではないので,注視していないと彼が咀嚼しているのかどうかはわからないほどである.なので,注意力散漫な人々からすると,彼が吸い込んだ食べ物をそのまま飲み込んでいるように見える.ヘビがネズミを丸飲みするように.
 小さな白いビキニの女は,それとは全く逆である.今,彼女の前にある皿には分厚いステーキが載っている.焼き具合は,フォークを突き刺しただけで血がにじみ出してくるほどのレアである.彼女はそれに少々の塩と,肉が覆い隠されるほどの黒胡椒をかけて食べる.テーブルの上にはソースポットに入ったイタリア風のステーキソースが用意されているけれど,それは使わない.彼女は切り取った肉片を,とてもおいしそうにもぐもぐ食べる.皿の上は小さな血の海になって,何か小動物の解剖でもしたみたいである.
「きみの幸せそうな食べ方を見ていると,昔アフリカで見たチーターのことを思い出す」
「あたしは,あなたの食べ方を見ると,人形劇の食事の場面を思い出してしまうわ」

 男は証券会社の社員.女は農家の跡継ぎ.
 手の比較.
 男の手は指が長くしなやかで,毎晩眠る前にハンドクリームで手入れをして,保湿のための手袋をはめている風に見える.女の手は少し節くれ立って,日に焼けている.若い間は野性的な感じがして魅力のひとつとも言えるけれど,年を取ってくると手の甲のシミがどうしようもなく広がって,日なたの匂いしかしなくなる,というタイプの手である.
 体型的な比較.
 男はひょろ長い.毎日のほとんどの時間を,PCのモニターを眺めてマウスでポインタを動かし,キーボードを打って過ごしているから運動不足になるのを,週末のフィットネスクラブでマシン相手に解消している.フィットネスクラブにいる周りの人々は,大抵が太り過ぎを気にしてやって来ている連中である.ロビーの椅子に座って,そういう人々が汗を流しながら同じ場所を走っているのを見ていると,回し車の中を走るネズミのように見えてくる.‘あなた方は,誰に飼われて,何を食って,そんなに太ってしまったのか?’,つい彼はそう口に出してしまいそうになって,我に返る.それから,自分自身だって,太ってはいないだけで,彼らとほとんど変わらないのだということに気づくのである.
 女は引き締まって均整の取れた体をしている.背は高くも低くもない.小さな白いビキニは,彼女のセクシーさよりもむしろ健康さを引き立たせている.少し特殊なトレーニングをすれば,ボディビルのちょっとした大会にでも参加できそうである.二の腕の下の部分…肘の少し上から手にかけてよく日焼けしているので,裸になって薄暗がりの中に立ったりすると,たぶん腕の先がないように見えるだろう.彼女は日なたで作業するときに長袖の服を着るのが嫌いなのだ.真冬の寒い日に白菜を収穫するときでも,着ている長袖のセーターを肘までまくり上げてする.春先はエンドウ豆,夏はキュウリ,晩秋は黒豆…収穫は1年中彼女を追い立てるように巡ってくる.その間も,畑を耕して畝を立てたり,種まきや苗の植え付けをしたり,とにかく体を使ってする仕事が目白押しである.自然に肉体はその強靱さを増していく.

「少し風が出てきましたね.寒くないですか?」
「あたしはいつもうんざりするような現実の季節といっしょに暮らしているから,この季節に風が吹いたら,だいたいこのくらい,っていうのがわかっていますの.今はまだ寒くなるような風じゃないわ.たまに例外もありますけどね」
「例外,というのに興味がありますね,私としては」
「そうね…例えば,あなたがその仮面を取って,素顔を見せてくれるとか,そんなことね」

これから話が展開するかどうかは,筆者の気分しだい♪


散文(批評随筆小説等) ヴェネツィア Copyright 藤原絵理子 2014-01-24 22:59:38
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