まり と 水銀
イグチユウイチ

古い体温計が、もてあそんでいた手の中で
音も立てずに割れました。

すらりと ななめに切れた指先から、
白いシーツに ぽたり と赤い血が滲みました。
体温計のガラスの管からは、夢のように美しい水銀がこぼれて、
指の傷口を伝い、ベットの上を滑って、
やがて 木造の床に落ちました。

その日は、もうすぐ梅が咲くのではないかと思うほど、
暖かな陽が差す 一月の祝日で、
十四の私は 静まった病室に ただひとりでした。

右の中指から染みてくる紅い血を見ながら、
これが 病んだ私の中を走る河なのだと思いました。
切れて 小さくめくれた皮膚の境目は、
二重の薄紅色をしていましたが、
押し当てたガーゼを離してみるたび、
何故だかそこが 濃い紫色に染まっていくのでした。


" 水銀は うんと強い毒があるすけ、
 体を腐らす 毒があるすけ、
 どんげんことがあっても 触ってはならんがよ。"


部屋には、置き時計の針だけが響いていました。
壁にかかった学生服とスカートが、
視線を逸らしたような気がしました。
両の眼には 今にもこぼれそうなほどの涙が湧いてきましたが、
大げさな深呼吸で 何とかこらえる事ができました。
突然現れた紫色の傷は まるで、
時間切れを告げる刻印のように見えました。

この紫は 私の皮を 肉を 喰い破りながら
ただ一途に 心臓を目指すのでしょうか。
深く病んだ この肺よりも早く。

不意に私は、まりを想いました。
可愛い子猫のまま死んでしまった、可哀想な まり。
心無い誰かに 熟れた果実のように頭を割られた その最後は、
右の前足だけが蜘蛛の糸で釣られたように
天に向かって 力無く伸びていました。

死は、クレゾールの臭いなどではないと 私は知っています。
本当の死は、腐った臓物が発する 濃ゆい汚物の臭い。
夏の神社で潰れていた、まりの臭い。

眼から涙があふれた瞬間、
すべての風景が 色を失っていくのが見えました。
レースのカーテンが、まるで最後の景色のように
優しく 川風に揺れていました。


自由詩 まり と 水銀 Copyright イグチユウイチ 2005-01-15 00:38:12
notebook Home 戻る