北の亡者/Again 2014睦月
たま

 絵ハガキ


古びたペアリフトが、白く耀く斜面と雲ひとつな
い青空の隙間を、カタコトと、揺れながら私を山
頂へと運んでゆく。飽き飽きとした水平線上の生
活を忘れ、雪の斜面を滑り落ちることだけが目的
の、単純な行動を繰り返す。
眠くなるほど長いリフトを降りて、少し右に下る
と、小さな丘のような丸い山頂が見えた。スキー
の板をはずして氷のような雪面をよじ登る。頂に
は木札のぶらさがった丸木が一本、ポツリと立っ
ていた。
南に向って立つと、目の前に八ヶ岳の険しい稜線
と、広い裾野が「へ」の字に見える。その裾野に
重なるようにして北岳を宿す南アルプス。すぐ横
に駒ヶ岳の中央アルプス。少しはなれて、どっし
りと太い山容の御嶽山。さらに北に目を移すと、
ノコギリ歯のような北アルプスの山稜。かすかに
槍ヶ岳のするどい山頂が確認できる。そして日本
海へと続く山々。
見わたす空には一片の風さえない。広大なパノラ
マに目を奪われる。私の足元は一八三四メートル。
美しすぎる風景に天然の色を付けると、死んでし
まった絵ハガキのようになってしまうことがある。
風を失してしまったからだ。
私は今、生きた絵ハガキの中に居る。一片の風さ
えないのに、このパノラマは生きている。大気か
ら滲み出ているからだ。見えないものさえ大気の
中に滲み出てくる。私にはそれが北の亡者のほほ
えみに見える。はるかな大陸からやって来た四季
の王者が笑っているのだ。
古びたペアリフトに乗って友がやって来た。私は
頂を降りる。丸い山頂を背にして、少しきつい斜
面を不器用に滑り落ちると、一気に風が私の身体
にうず巻いた。
風はすぐ身近に潜んでいたのだ。


           (一九九三年作品)



   #

 一月の槍ヶ岳に登ったのは一九八〇年前後のことだった。その当時は暖冬が続いたとはいえ、一月の北アルプスの山稜は半端な覚悟では登れない。それなりの訓練と装備を身につけた四〜五名の仲間と、パーティを組んで登ることになる。
 例年、九月に入ると週末は六甲山系の岩場にテントを張って、朝早くから垂直に近い岩壁を、一二本爪のアイゼンを付けて登る。つまり、冬山の氷壁を登る訓練になるのだが難しいのは下りだった。斜度四五度ほどの岩の斜面をまっすぐ前を向いて下る。硬い岩盤と鉄のアイゼンの爪は馴染まないから、腰を落として膝を曲げてガニ股にならないよう、つま先はまっすぐ真下に向けてゆっくり下る。高度なバランス感覚を要求されるが、背には一〇キロ余りのザックを背負って負荷をかける。二〇メートルほどの斜面を何度か往復すると膝が笑ったが、厳冬の北ア縦走には欠かせない訓練だった。

 その頃、私が所属していた社会人山岳会は、会員数、十名ほどの小さなクラブだった。夏はロック・クライミング、冬は雪山の縦走。北アはもっとも近くて交通の便も良かったから、夏も冬も北アのどこかでキャンプしていた。とりわけ、五月連休の残雪の北ア縦走は、私には最高のハイキングだった。そんなふうに雪山メインのクラブなので、めったに新人はやってこないし、女もいなかった。
 その年の夏、二名の新人がやってきた。熊ちゃんは身長一七八センチ、体重は八〇キロあって体格ではクラブ一番になった。私は一六九センチの五五キロぐらいだったから、熊ちゃんと並ぶと私が新人に見えた。その熊ちゃん、体格は申し分なかったが、アイゼンをつけて登り始めるとバランスが悪くて見ていられない。六甲山での練習はいつも熊ちゃんとペアを組み、四〇メートルのザイルで身をつなぎ私がトップで登る。
 練習が十一月に入った頃、私はオーバーハングを越えたところで十メートル余り滑落した。オーバーハングの下でザイルを握りしめた熊ちゃんが、落ちてくる私を必死になって止めたにちがいない。硬い岩盤の数センチ上でザイルにぶら下がったまま、私は振り子状態で止まった。私にとってたった一度の滑落だったが、もし、その日の相棒が八〇キロの熊ちゃんでなかったら、岩盤に叩きつけられて私の首の骨は砕けていただろう。

 新人二名を連れてその年も正月山行は北アルプスと決めていた。四泊五日の行程で、新穂高温泉から槍平に入って幕営し、翌日、西鎌尾根を登って槍ヶ岳山頂直下の肩にある冬期避難小屋で一泊、その翌朝に、槍の穂(山頂)に登頂してその日のうちに槍平に下る予定だった。パーティは新人二名を加えて七名になった。

 山行初日は天候に恵まれて快調だった。凍りついた滝谷出合で記念撮影をして槍平に入る。予定通り二日目は西鎌尾根に取り付いて登りはじめるが、粉雪の混じったガスに包まれ視界はかなり悪い。尾根は一本だし、登りであるからまず、ルートを外すことはないが、稜線に出てもガスは晴れなくて槍の山頂は見えない。先行パーティの踏み跡を確かめながらようやく、避難小屋に辿り着くことができたのだった。
 槍の肩の冬期避難小屋は文字通り、冬場だけ開放された木造の小屋である。数パーティは入ることができるが、もちろんコンロ持参の自炊になる。小屋の入り口は落とし戸になっていて、小窓はあるがほとんど外の景色は見えない。薄暗い入り口近くにトイレがあって便器が血に染まっていた。たぶん、血尿だろう。小屋の中に遭難者がいるはずだった。どこで滑落したのだろうか。

 翌日早朝、私は避難小屋の落とし戸を押し開け、上半身をねじって空を見あげた。するとそこには信じられないものが、朝日を浴びて待ちかまえていたのだった。
 新田次郎の小説「孤高の人」の主人公加藤文太郎は実在の登山家である。その加藤文太郎が槍ヶ岳の北鎌尾根で遭難する日の朝、私と同じようにこの避難小屋の落とし戸から半身を出して、朝日を受けて耀く槍ヶ岳の山頂を見ている。それは神々しいほどの氷のドームだった。夢にも見ることのできないこの槍の穂の光景を目にして、私は満面の笑みを浮かべていた。
 山頂への登攀ルートは所々に垂直の鉄梯子があるが、凍りついた岩のドームをよじ登ることになる。まず、私がトップで山頂を踏むと、新人二名をザイルで吊り上げる。残りのメンバーは中堅とベテランだからザイルはいらなかった。狭い山頂には小さな祠が祭られていた。標高三一八〇メートル。遥かかなたに日本海が見えたはずだが、今はもう記憶のかけらすらない。

 二年後の冬。その年、私は体調を崩して正月山行には参加できず、北アに向かったパーティは四名だった。入山三日目、天候に恵まれて涸沢岳から奥穂岳へと、快調に縦走していたパーティに思わぬ事態が起こった。パーティのトップを歩いていた熊ちゃんがアイゼンを岩角にひっかけて転倒し、そのまま狭い稜線から滑落して行方がわからなくなった。一〇〇〇メートル余りは滑落しただろう。雪深い沢の底で、熊ちゃんは意識を失ったまま凍死した。
 六甲山で滑落する私を止めてくれた熊ちゃんを、私は止めることができなかった。もし、私が山行に加わっていたら、熊ちゃんの滑落はなかったかもしれない。そんな意味のない想いを抱いたまま、その年の夏は仲間を募って、熊ちゃんの追悼山行になった。奥穂岳の山頂の近く、何故か人の頭ほどの丸い石が、稜線から視界の途絶えた沢に向かって敷き詰められていた。その川原のような稜線に花束を添えて仲間とともに深く黙祷を捧げた。
 夏山の爽快な青空の下、汗と涙が滲み出てやむことのない山行だった。私の北アルプスはそれが最後だった気がする。

 詩を書き始めたのは結婚をして冬山から遠ざかり始めたころだった。山にまつわる想い出はたくさんあっても、私は山の詩を書くことはしないし、この先も書くつもりはない。山行は現実の詩の世界であって、それ以上の詩は存在しないと思うからだ。今、生きている私が書くべきことは例えそれが観念の世界であったとしても、未来へと続く「今」なのだと思う。そうしてそれが、熊ちゃんとの約束であり、私にできる最善の追善なのだという思いがある。

 「北の亡者」を書き始めた頃、山を離れてもやはり冬が来ると雪山が恋しくなる私は、妻と、も吉を家に残してスキーバスに乗車したが、何故か、軽いザックを背負って、気分は山スキーだったのだ。
















自由詩 北の亡者/Again 2014睦月 Copyright たま 2014-01-13 11:44:39縦
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