かなしめ十円
鯉
1
やがて堪えきれなくなって、場所を求めて彷徨し始めることにした。立ち退きを余儀なくされたのだ。河岸の沿いを進む。うららかな午後の、ちいさい淀みを掻き分けながら、光に透けている、光そのものであったという誤診を身に付けて。土気、に含まれるあまたの微生物によって侵食された衣装は風と同じように吹いた後に記憶として留められていく・冬の寒さは鈍い鉄の、なめらかな、その、造形から、なる、傷み。
何ものも。声をあわせている。寒空に建設機械の轟音が渡る。すべて溶けたあと、砂利で節々を汚された雪の残ったのが、河へ流れていく。工場の排水と、生活排水と、かれの放った精液、こどもの唾、それらの切れ端。工場の休憩所のひとつで、おとこのたばこの煙が連れて行かれる。聖餅の色をしたそれとおとこは触れ合っている。おとこは決して気づかないだろう。何度か頭を掻いて、作業服の肩に乗ったふけを払っておとこは生活に戻る。
なるだけ安らげる場所を探している。少し寝息が響いても安心のできる場所を。そして誰にも妬むことのなく、何ものも、それらを覚えていることのない場所を。しかし見えてくる海はとても広くって、おそろしかった。無数の太陽が乱反射して、からだの隅々までを反転させてしまって、黒ずませてしまう。無数の太陽はこわい。きらきらしている内に燃えていく姿を幻視してしまう。うんざりだった。なにもかもが、それを伴ってしか現れてこない。そう言っている間、煙は掌の中で笑ってくれたが、しばらくするとするすると抜けると中空に立ち上って、驚いたような表情をして消えてしまった。ぼくたちは自らのぼろぼろの服が落ちては消えるのを眺めて、また進み始めた。
2
彼女が死んだ頃にちょうど、ぼくはマスを掻いていたのだと思うと、なにやら因縁めいているような気がしないでもなくもないような気がしなくもなきにしもあらずでもなくなくなくなくなくなくぼくは泣く。泣いたか? いや。太陽に少し雲はかかっていたが気分のいい天気だった。しばらくすれば晴天になるだろう。窓を開けると寒くなったので毛布を被ったまま化学の味がする水道水を飲んでいる。「つめたい」がそのまま喉を通っていった。部屋には返していない無数のティッシュやコンビニ弁当の殻が入ったゴミ袋、本の催促状、あと「鈴木3000円」と書かれた各借金の契約書(ごくこじんまりとした)がそれらの横に平積みになっている。あいつからも1000円借りていた。ぼくの部屋は負債で構成されている。そして唐突に入り込んだ風ですぐにぼくの部屋は破綻した。毛布の端をぼくは強く握っている。
寒い。喉を「つめたい」が通るたびに、このいくつかのうちに彼女が紛れ込むということがこれから起きるのだろうなあとぼくは思った。たとえば記憶の持ちうるあの奇妙なまでの再生性だ。これから彼女は決してきれいなドレスや病室の薬品くささなどではなく、この「つめたい」によってのみ蘇るのだ。しかし葬式に参列するつもりはなかったし、なにより遺骸を見ていない以上どうせぼくの胸中には「おいしい」「きもちいい」「もったいない」くらいしか渦巻いていなかったのだから、それも大した感慨にはならないだろう。できうることなら、とぼくは飲み干す。コップが空になる。余った雫に埃が付いている。埃ではない。小人が浮いている。
「おかねかえして」
ぼくはゆっくりティッシュを取った。
3
球体の
球体の
球体の
電灯の下で睦みあう
窓の外は長い花火だった
あなたは十円玉を舌に乗せている
あなたが言う「べー」
その度に世界が輝く、すごく刺さる光(嘘なのはもう知ってる)
あなたは舌で転がしている
十円玉で切断された舌そのものを
飽きてしまえばそれを吐き出して次に移るし
ぼくは五円玉に舌を挿し入れ始める
球体の
球体の
球体は
がらんどうの廃屋から聞こえるベッドの軋みだけが
お前が死のうが
人類が死のうが
宇宙が死のうが続く営為だ
けれどシーツに包まれたひとつひとつの眼は
決して互いを見つめ合うことはない