振り返ると
岩下こずえ
振り返ると、そこには、誰もいなかった。だとしても、Kは走り続けなければならない。実際、立ち止まったそばから――といっても、もう諦めてしまったからその行く末は当然Kにはわかっていたことだったわけだけど――、一度あいつらに、まるで満員電車のなかで筋肉質の関取たちに取り囲まれるかのようにして、首根っこをつかまれたことがあったのだから、なおさらだった。どこからやってくるか、わかりやしない。でも、どこまで走り続けることができるだろうか。
それは、Kにもまったく見当がつかなかった。どれくらい走ったのだろう、数キロもあっただろう畦道過ぎたころには、もう外は真っ暗になっていた。遠くには、高台が見えた。あそこまで行こう。そこにいけばきっと、もう誰も手が届かないに違いない。
けれども、どうしたことだろう、走り続けたせいだろうか、もう膝がまるでハンマーのように持ち上がらなくなってしまっている。これ以上走ることはできないのか。それでも、Kは――逃げてきたはずなのに、あたかも過去をひきずるようにして――脚を垂れ下げて歩くほかないのだ。
Kは、胎児を流してきたのだ。どこにか。脚元にである。脚元の、その脚が眼差すその地底にである。
確かに、Kは、インターネットで韓国から格安で取り寄せた得体のしれない錠剤を呑んで、ひとしれず、堕胎したに過ぎない。小さなぼろぼろのアパートの一室で、うずくまりながら、3日間寝込み続けた合間に、その子は、洋式便器を通して排水管に流れて行ったことだろう。法律でどれほど堕胎が合法化される時期であろうとも、Kは、どうしても病院に駆け込むことができなかったし、それが“いのち”と認められずとも、だからといって、唾を排水溝に吐き捨てるかのように、きれいさっぱりと心から消し去ることもできなかった。だから、Kにとって、その流れて行った先は、蟻地獄のような汚濁の地底として以外に想像できなかったのである。ひとは、そんな沼地に足を置くことができるだろうか。できるはずがない。けれども、そこかしこにそんな雲泥があるのだ。Kは、まさかじぶんがそんな底なしにその脚を踏み入れるとは思いもよらなかった。できるはずもないものに、自分を含め、人間どもみんな条件づけられていることを、こんな風にして思い知るとは、思いもよらなかった。
重い脚を引きずりながら、高台へ向かう地面の土くれをしっかりと感じながら、すこしずつすこしずつ歩を進め、ようやく頂上が近づいてきた。Kの両眼には、頂上の向こうに広がる、星空だけが、じぶんの歩みの確かさとあやまりのなさを示してくれるように思えた。そうして、アスファルトで固められた高台にたどり着いたとき、そこから見えた展望は、決して最初見ていたような希望に満ちたものではなかった。そこには、津波で流された港と家々と車や木や人間たちが、子どもが描く絵のようにして、ぐちゃぐちゃになっている街並み、そんな混濁した世界しか、見出せなかったのだ。
そうだった、Kは、ただ大きな地震の後、とっさに高台へ逃げてきていただけだったのだ。けれども、Kがそこにみていたものはなんだったのか。Kが逃れようとしていたもの、あれはまぼろしだったのか。じぶんが生き慣れ親しんだはずの街並みが無残にも汚濁の渦に帰しているその光景は、まさに自分が逃げてきたはずの、あの沼地とどれほど本質的に違っていただろう。自分が逃げようとしてきたものを、Kは、どうしてその両眼全体に焼き付けなければならないのだろうか。
こんな怨念にみちた沼地を、誰が知しっているだろうか。おそらく誰も知らない。誰にこんなことが望みうるだろうか。どんなふうにして、こんな世界を生きることができるだろうか。夢のような、カタストロフの一幕の中でのみ、かろうじてこんな風に、感じ取られるだけなのだろうか。
Kは、手すりにもたれかかりながら、じぶんもまたこの濁流にのまれていた方がよかったのだろうかと、そう自問せざるをえなかった。