眼差し
HAL

久しぶりにその眼に出逢ったのは
スーパーへ出かけビニール袋を両手に下げて帰ろうとしていたときだった

歩道の隅で停まったままの車椅子に乗っているひとがいた
その老いたひととぼくの眼が遇った

か細い視線だったけれど
ぼくはその視線がなにを伝えたいかを知っていた

だれかと話しをしたいという眼差し
どんなことでもいいから挨拶以上の声を交わしたいという眼差し

もう何年前になるだろうか
元居た業界に戻った頃 仕事の依頼はなく何日もだれとも話しをしなかったことがある

一週間に一度の通院
待ち合い室でぼくが座った壁際は天井から床まで鏡張りだった
そのときぼくは鏡に映る自分を見た
その眼はだれかと話しをしたいと乞う眼だった

その眼に出逢ったしまった
ぼくは車椅子に近づきスーパーの袋を置いてしゃがんでこんにちはと声を掛けた

彼から小さな声で同じ言葉が返ってきた
ぼくはおひとりですかと問いなぜ車椅子なんですかとも聴いた

彼は階段から落ちたと答えた
右足を複雑骨折しもう手術でも治らないと医師から告げられたとつづけた

ぼくはぼくが脳梗塞を起こしたと言い
でもほらそうは見えないでしょと立ち上がって彼の前で踊った

左足首が動かないことを
分からないように注意をしながら

彼の顔に静かな笑みが浮かんだ
ぼくは踊るのをやめてまたしゃがんで名前を告げた

彼も小野と言いますと掠れた声で
名前と少し遠い住所を教えてくれたけれど訪ねるのは無理なので住所は聴き流した

何人もの通行人が
怪訝な表情でぼくらを見て通り過ぎる強い視線を感じたけれど気にはならなかった

ぼくは彼に気づかれないように
腕時計を盗み見た もう30分以上も経っていた

喋りつづけている彼の眼を見た
もうひとと話しをしたいという眼差しは消えていた

頃合いだった
ぼくは買ったものが腐ってしまうと想いついた理由を伝えて帰りますと告げた

彼は引き止めなかった
ぼくは生きていきましょうねと言い また見かけたら声を掛けると約束をした

でもひとつだけ別れ際に彼に言った
この国じゃぼくらはお互いに助けあったり支えあわなきゃ生きていけませんからね

頷く彼を見ながら
ありがとなの声を聴きスーパーの袋を両手で持ちじゃあと残し彼の視界から出た

そういう眼差しをするひとがいる
映画でその眼差しができたのは“タクシードライバー”のロバート・デ・ニーロだけだ

でもそれすらに
気がつくひとはとても少ない 稀だといっても間違いではないけど幸せだとも想う

ぼくは滅多にしない
歩き煙草をしながら よそよそしく吹く秋風にきみもきっとそうだろうと問うてみた

もちろん答えはなかった
だけどか細い眼差しが弱いひとと決めつけるのは生に対してのルール違反だとぼくは呟いた







孤独な生活をしている人間は、いつも心に何かすすんで話したくなるようなことを持っているものである        
                                  (アントン・チェーホフ“恋について”より)



自由詩 眼差し Copyright HAL 2013-11-02 12:35:21
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