飯島耕一さんとのいくつかの出会い
中川達矢

?
 僕が大学4年生の時、図書館実習をしている時に地元の図書館で作業していたある日のこと。
 その日の作業は、図書館であまり貸出されることがなくなった図書をリサイクル本として、廃棄された図書の整理をすることだった。数々の本のバーコードの位置に「リサイクル本」という無機物なシールを貼るだけの作業だったが、今でも覚えていることがある。
 一冊の黄色い本。その本のタイトルの名前は『飯島耕一詩集 2』。小沢書店から1980年に出された当時の全集に近い本だ。僕は実習先の司書に許可を得て、その本を持って帰ろうとリサイクル本の棚のわかりやすい位置に置いといたが、その日の作業が終わった後の疲れからか、ついには持って帰ることを忘れてしまった。
 (結局、今年になって神保町の田村書店で購入したのだが…)

?
 これもまた僕が大学4年生の時、と言っても、卒業式を間近に控えた時期のこと。僕が詩を書くきっかけを与えてくださった詩人の先生が大学を退官されるということで、研究室の整理をお手伝いした時のこと。
 先生の整理をお手伝いしたのは、もしいらない本があれば頂こう、という下心があってのことだったが、先生との信頼が多少なりともあったからこそ、その整理をお手伝いすることができたと思っている。整理中、先生は「この人はね…」「この本はね…」と様々な本について大事そうに語ってくださった。
 その語りの一つに「この飯島耕一さんはね…」ということがあったのを覚えている。当時は、飯島耕一は名前だけしか知らず、全く印象がなく、そういう詩人の方もいらっしゃるのか、というぐらいにしか思っていなかった。
 今となって飯島耕一の『詩の両岸をそぞろ歩きする』の中にある「これからの詩の担い手を、二人だけあげると」という短い文章を読んだ時、その二人のうちの一人だったのがその先生だったことに気づいて、非常に驚いたのと同時に、もっと真摯にその先生の言うことを聞いておけばよかったという後悔の念が生じた。

?
 大学院に入ってから、いまだに自分でもよくわからないほどのデプレッションに陥った。人間関係に疲れたのと、授業での発表やら発言やらに対する周りの反応ですっかり勉強に対する自信がなくなってしまっていたと思う。
 そんな中、指導教授からの推薦で学内の小さな学会で発表することが決まった。決まったことはよかったのだが、その発表内容は白紙状態だった。
 そんなある日、指導教授と詩の話をしていた時のこと。「この飯島耕一さんの詩集を読みなさい。とりあえず『ゴヤのファースト・ネームは』を読むといいよ」と言われ、度々聞いてきた名である詩人の詩集をようやく読むことになった。
 『ゴヤのファースト・ネームは』に対する読後感は今でも忘れない。この詩集を読んだからこそ、自分のデプレッションは解決されたと言っても過言ではない。『ゴヤのファースト・ネームは』は、飯島耕一自身のデプレッションが回復へと向かう過程が描かれたものであり、強い共感を覚えた。その共感できた感動、『ゴヤのファースト・ネームは』という詩集に対する感謝をこめて、学会ではこの詩集の良さをいかに発表できるか、ということで発表内容を決めた。
 一人称であるべき「ぼく」は、二人称としての「きみ」として描かれており、そして、「きみの内部」がからっぽになってしまって、いわゆる対人恐怖症的になってしまった「きみ」が旅をする物語。その旅をしていく最中で、「見ること」が恐怖となっていた「きみ」は様々な出会いと共に「見ること」を取り戻すことで、「きみの内部で 一度死んだスペインが/もう一度生きはじめ、/グヮダルキビル川が/光る。」ことや「きみの内部に ふたたび/オレンジとオリーヴの群落のある/岩原が ひろがり出す。」ことができた。こうして「きみの内部」が満たされていった「きみ」すなわち飯島耕一は再び詩を書くことができるようになった。
 発表自体は、最初に覚えた共感をできるだけ隠しながら、この詩集の構造を分析して、この一人称であるべき「きみ」がこの詩集内でどのように描かれているかに焦点を当てた。その発表を聞いたものをどれだけ説得できたかはわからないが、発表するにあたって何度も『ゴヤのファースト・ネームは』を読み直した時間は今でも、私の「内部」で生き生きとしている。



散文(批評随筆小説等) 飯島耕一さんとのいくつかの出会い Copyright 中川達矢 2013-10-23 09:19:16
notebook Home 戻る