ニコニコ動画を爆心(震源)地に、近年あれほど盛大に盛り上がった「IKZO=吉幾三=イクゾーMADムービー」に関して、いまだまともな批評が殆ど書かれていないことが気にかかる。
音楽の歴史は、ほとんど人間の歴史ほどに深く古い。そして古代から現代音楽に至る大きな歴史に対して、それを解体するよーな位置にたとえば「ロック」や「ポピュラー音楽」があったし、またサブカルチャーやカウンターカルチャーとはつねにそういうものだ。
だから、サブやカウンターとしてのカルチャーが、アカデミックな現代音楽のよーな重たい歴史性や批評性を纏う必要はないし(身軽でいい"ロック"や"マンガ"それ自体が「音楽」や「アート」のよーな大きな歴史性に対する鋭利なヒヒョーなのだから)、そうするべきではない。
とゆーのが僕の考えだが、だからと言ってまったく「ロック史」が書かれなくていいとは思わないし、身軽な「ナンでもアリ!」のカルチャーの中にもなんらかのヒヒョーは必要だ。
とゆーことで、気の向くままに「IKZOマッドムービー」について書いてみよーと思います!
『マカロニも無エ(Perfume×吉幾三)』
つ
http://www.youtube.com/watch?v=vTJDCMoH1NI (*お手数ですが各自ご視聴ください。)
さて、それでは他愛もない昔話を切り口に「マカロニも無エ」のヒヒョーを始めよう。
***
昔の職場の同僚に、自分は「木と会話できるんだ」とゆーデムパ、、いえ、素晴らしい人がいたが、無能な僕は[木]や[雲]や[石ころ]や[サッカーボール]や[マリモ]や[ハムスター]さんとお話しする能力がないし、第一、先ず、残念ながら彼らとは友達になれる気がしない。 そん中でもとくに[無生物]さんとはぜったいに友達になれる気がしないな。。 [雲]とか[石ころ]とか…[無生物]さんは、"友達申請"を拒んできやがる感がパネェです!。。雲と対話デキナイよーじゃお前は吟遊詩人にはなれねーな、とか言われても、そもそも僕は吟遊詩人じゃないし土台無理す!
でも。
[無生物]さんじゃなくて、しかも[マリモ]や[ハムスター]さんでもなくて、、たとえば[犬]や[チンパンジー]や『イクゾー』なんかとはヘタしたらギリギリで"マブダチ"になれそーな気がするんだなコレが。。
そこはふしぎと。ニンゲンじゃなくとも(いえ、『イクゾー』は人間ですが!)。
僕たちは「心が通じる」とか「通じない」とか、そーいうことを大昔からずっと考えてきた。かのデカルトやカントだって、端的にいえばそーゆーこと(認識論的なもんだい)に頭を痛めていたといっても過言ではない。だけどこのへんのこと(どーしてわれわれは[チンパンジー]や[犬]や『イクゾー』と"マブダチ"になれるのか?…)については、スッポリ抜け落ちているとゆーか、意外にもあんまり考察されてこなかったとゆーか、思い切りスルーされてきてるんですよね!。。
僕は、人と人の「心が通じる」とか、「理解する」とか、「共感する」とか、「心底わかち合う」…とか、それはもちろん素晴らしいことだと思うけれど(たとえそれが幻想や錯覚であっても)、でも、そんなことよりも、犬やチンパンジーやイクゾーや理解し合えるはずもないニンゲン同士(世代や国境を越えて)が、ナゼ、マブダチになれるのか? てことのが気にかかる。
もっといえば、宇宙船がぶっ壊れてぐうぜん漂着した、荒涼とした惑星に、でも、アメーバみたいな姿のドロドロの知的生命体がいた! とゆうときの、根源からくる打ち震えるよーな喜びの正体が気にかかる。。(彼らとは、およそカルチャーも、ことばも、身体も、価値観も、ナニもかも共有できるものがないはずなのに…。)
「誰かと話したい」、たとえばそんな夜はないだろうか。贅沢は言わない、誰でもいい、俺のことぜんぜんわかってくれなくてもイイから、どんなアウトな奴でもイイから、ことば通じなくてもイイから、そこにいてただ聞いてくれるだけでイイから、、誰かと話したい、そんな"共感未満"の月曜の深夜とか。。
でも、たぶん。
その相手は、[雲]とか[石ころ]とか[死体]とか[無生物]とか[マリモ]とか[ハムスター]さんじゃやっぱりダメなんだよな。
おそらくその相手にはなんらかの応答が、コミュニケーションの可能性が必要だ。だけど、そして(心が通じる、とか、通じない、ではなく)お互いの存在を許容し合えるカンケー性さえ構築できれば、たぶんそれだけで万事オーケーだ!
そう、『マカロニも無エ』の、パフュームとイクゾーのよーに。
サンプリング、カットアップ、リミックス、マシューアップ…いまさらそんな懐かしいカタカナを並べたってはじまらない。技術的な話は専門家に譲るとして、ここで語るべきは、そのリミックスやマッシュアップがどう成功しているかであり、[パフューム]と『イクゾー』を同時に視野に入れることではじめて眼前に立ち現れる景色についてだ。
『マカロニも無エ』は素晴らしい。そしてその素晴らしさは、Perfumeとイクゾーが互いに通じ合っているよーでいて、まったく「通じ合っていない」とゆーところにある。
まるでTVの討論番組に登壇した政治家とJKのよーに、、あたかも地球人と別の惑星の宇宙人みたいに、、両者の会話(歌詞)はおそろしいほどにまったく噛み合っていないんだけれど(Perfumeが「手をつないで歩くの♪」とかゆってるのに、イクゾーは「オラの村には電気が無え!」とかちんぷんかんぷんゆってるし、、)、そもそもPerfumeとイクゾーでは、ジェネレーションのギャップはもちろんのこと、ヘタすればことばも通じないほどにお互いのズレや食い違いがハゲし過ぎるんだけれど、、そして、けっ局、両者は最後まで通じ合うことなくズレや食い違いはそのままに、音楽的に一つの柔らかく暖かいカンケー性として描き出されているという点にこそ希望がある。
『マカロニも無エ』は距離感の歌だ。
Perfumeが、イクゾーとの淡いカンケー性(「手をつないで歩く」からといってイクゾーが、恋人なのか、マブダチなのか、ナンなのかわからない、、)を、お互いの距離感をうたった歌だ。
「これくらいのかんじで たぶんちょうどいいよね」
「わからないことだらけ でもあんしんできるの」
そしてこの距離感を僕は知っている。これはチンパンジーや系外惑星でのアメーバ型の知的生命体との邂逅でもあり、そして、それはちょうど誰かと話したかった月曜深夜の、その「誰か」と「わたし」のあいだの距離感だ。 終