三つ目のソラリス(ソダーバーグ)は未体験。
●「ソラリスの陽のもとに」 スタニスラフ・レム について
この小説を読んで驚くのは、設定の独特さである。惑星ソラリスの「海」はなぞの知的生命体であり、この「海」はアインシュタインの理論を自ら応用して、時空を曲げて自らの惑星の軌道を修正したりする知能を持つ。(まあよくもこんな発想が出てくることだ。)そしてこの海のなぞをどうしても解こうとする人類の、科学の飽くなき挑戦が描かれる。その挑戦の意味は何か? これは科学の本質に対する質問で、とても興味深い。
ソラリスの海を前に、主人公とその同僚たちは狂っていく。その狂っていきかたが、じつに緻密であり、読んでいる私も「そりゃ狂うよな」と納得させられてしまう。これは貴重な体験であった。
この作品においてレムが戦っていたのは、アメリカ的SFのあり方だった。それは次のようなものだ。
人類にとって謎なもの(宇宙人等)と、人類が遭遇したときに、ありがちなSFのパターンは次の3種類だ、とレムは言う。
1.なんかしらんけどお互い仲良くなる。
2.宇宙人のほうが進んでいた。戦いに敗れる人類。
3.人類のほうが進んでいた。戦いに勝つ人類。
おいおいそれでいいのかよ、というのがレムのつっこみだ。「ソラリス」において、ソラリスの海と人類は、3つのパターンのどれも踏まない。主人公は海を前に苦しむ、海のせいで、精神的に苦しむ。(しかし、一方で海も苦しんでいたのではないか?)
「人類みな平等」とか、「話せば分かる」とか、「人間だもの」とか、そういう思想を宇宙にまで敷衍したときに、こういう問題(進んでいるとか進んでいないとか、そういう問題ではない、別の体系の進化、理解不能なもの)に突き当たるかもしれない、というレムの予想。さて、地球のことをひるがえってかんがえてみると、本当に国際コミュニケーションは必要だろうか、という問題につきあたる。たとえば、ジャングルの奥に住む『原始人』と交流を持とうとすること。彼らに『現代文明』を教えてあげようとすること。そこには、「文明とは、数直線のようなもの」という前提がある。しかし、ジャングルの奥には、日本の定規では測れない、別の質を持った文明があるはずである。そしてそれは、日本人が果たしてすべて完全に理解できるものであろうか。接触し、交流を持つ、ということは本当に尊いことなのか。われわれは、彼ら(不可知なるもの)を尊重しつつ、接触しないという方法を、考えたことがあっただろうか。そのような疑問を投げかけているようにも思える。
●「惑星ソラリス」 タルコフスキー と原作の関係について
原作者レムは映画について大変お怒りのご様子である。原作に忠実でない、地球の場面なんて小説に書いていない。と。僕が映画と小説を両方体験して思ったのは両方貴重なものだということ。まず、中心テーマが違うように思う。レムのテーマについてはすでに触れたとおり、「不可知なものとの接触について」だ。しかし、タルコフスキーにおいては、(おそらく)「家族の記憶」のようなものなのだと思う。タルコフスキーは後に、惑星ソラリスは失敗作だったといっている。SFというジャンルから逃れることができなかった、と。彼はSFを映画化したかったのではない。ソ連政府の目から逃れるために、SFという殻を借りたに過ぎない(それはショスタコーヴィチの方法論と似ている。一見違うもののように見せかけて、その奥で違うことをテーマにしている、ということにおいて。)。しかし、タルコフスキーは、SFの部分を重くしすぎた、と考えていたようである(とはいいながら、宇宙を描いたのは、宇宙船がステーションに近づいていくシーンだけであり、そのSF的描写の少なさこそがこの映画と「2001年宇宙の旅」を峻別していると思う。タルコフスキーは「2001年」について次のように述べている。「スタンレー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』を最近見ました。人工的なものの印象が残りました。最新科学技術の業績を見せる博物館にいるかのようでした。キューブリックはそういうことに酔いしれて、人間のことを、人間の道徳の問題を忘れています。それがなければ、真の芸術は存在できません。」
http://members.aol.com/Satokimit/solaris.html)。事実、レムの小説と比べると、映画のSF的部分の説明は不十分だ。小説における(SFの"Science"の部分を担う)論理の緻密さが映画には消えている。そしてその緻密さこそが小説の長所だったわけである。そのかわり映画に現れてきたのが、詩、なのだと思う。タルコフスキーの体の中に刻印されている「記憶」を、主人公の記憶の中であらわそうとした。妻の記憶、母の記憶(原作には母については触れられていない!)。原作において、主人公は記憶に苛まれる。タルコフスキーは自身の記憶を掘り返して、彼の映画(この作品以外のものも)に、独特の霧のような詩情を与える。その意味でもタルコフスキーは(映像の)詩人である。彼のそのスタイルに、原作「ソラリス」はちょうどフィットしたのではないか。記憶の奥底にある罪(とそれに苛まれる「良心」、このことばも小説にはあらわれなかった)という側面を、原作よりも、より強くあらわしはしたけれども、それは原作を損なうものではなかったと私は思う。
●「惑星ソラリス」 タルコフスキー について感情的に語る
(ネタばればっちり)
3回目ぐらいで泣いた。見るたびに新しい発見がある!最後の30分ぐらいが圧巻。本当に圧巻。涙が出る。奥さん役の女優が綺麗で、その奥さんが綾波レイみたいにたくさん歩き回っているシーン(実際クローンだからますます綾波レイっぽい)の中に、一人だけ「母」がいるシーンには、ものすごい戦慄を覚える。母への愛と、妻への愛の壮絶な戦い。それは地球への愛とソラリスへの愛の戦いなのかもしれない。
この映画を見たら、ぜひ「鏡」を見てほしい。これも母への愛情に満ちた映画であるが、「ソラリス」と響きあう場面がある。「ソラリス」において母親が、「電話を長い間くれなかった」と息子を責めるが、鏡にも同じエピソードがある。また、「鏡」の最初の方に、母親が向こうの景色を見て、柵に座りながらタバコをすう背中を映すシーンがあったが、これは「惑星ソラリス」において、ブリューゲルを見ながら机に座ってタバコをすう妻の背中と重なる。これは単純にこの構図を彼が好んだだけなのか?僕にはなんとなくタルコフスキーの「妻と母親の同一視とその葛藤」を映し出しているように思えるのである。母への愛と妻への愛の混同。そして、母と妻はおそらく仲が悪かったのである。
母親が息子の手を洗うシーンの美しさはなんともいえない。そしてその瓶が物質化して宇宙船に残っているシーンは驚くほど美しい。愛(どちらに対するのものか)が結晶化したように、宇宙船の窓辺の植物が芽生えているのをとらえた少し長めのショットは本当に美しい。あのズームインで泣けてしまう。
冒頭の地球のシーンの美しさ。未来都市の車の走るシーン、とくに横から映した運転していないバートン(何しろ未来都市だから車は自走するのだ)と、後部座席から首をもたれかけさせる息子(この首の傾げ方、前へ倒れてくるタイミングの美しさ!)。
ソラリスステーションで妻と主人公が昔のフィルムを見るシーンの壮絶な美しさ!過去を振り返ることの寂しさが画面に張り付いている。あの赤い服の母親が緑の中にすっくと立っている絵の美しさといったら!そしてその母から妻の映像に突然切り替わるときの不気味さと言ったら!そしてこのときの音楽。これ以外ありえないタイミングでバッハ(コラール「我なんじに呼ばわる、主イエス・キリストよ」BWV.639 )を流す。カットしたりしないで最初から最後まで流す。曲が終わるときにフィルムの光も消えるのである(その演出)!実際にはコーダの数小節をカットしているが、気にならないカットの仕方をしているのでOKだと思う。曲の途中を抜けさせる「戦場のピアニスト」の無残なカットよりずっといい。