つるはしと亀おんな
アラガイs


東口から西口を抜ける地下通路はいつも乗降客で溢れている。
比較的に混雑が少ないのは中央の広場から駅を跨いで裏側に出る南側の通路だ。買い物客で分かれるこちら側の通路は、通勤時間を過ぎれば人の足もぐっと減る。もっともお昼どきを過ぎた頃になれば、今度は買い物に駆り出す主婦の姿が多くなる。バブルの崩壊も我が身には関係ない奥様方だ。ぼくはいつも少し廻り道をしてこの通路を歩くようにしていた。
(おい ! ちょっと兄ちゃんよ 。右の腕に大きな亀の刺青をした女をこの辺りで見かけたことはないかい? いや、ひょっとしたら聞いたことないかい?)
こんなことを尋ねながらほぼ毎日この通路を徘徊している男がいた。時代遅れの派手な開襟シャツを着た男。刈り込みの鋭い両側の耳たぶに彫られた小さな嘴。竜を背負い、まるで身内にでも話しかけるような勢いのある大げさな身のこなしで威圧する。馴れ馴れしくキョロキョロと忙しない大きな瞳はお調子者の象徴か。ちょっと見ただけでヤバいその筋に関係したお方の雰囲気だ。しかし、逆にこの胡散臭さはよほど玄人扱いに慣れた人間でしかわからない面持ちでもあった。間髪を逃さず鳴き声をあげながら動きまわるあひるの乾かない舌下。それを見ただけでは計りしれないほど、とにかく彼は口が巧かった。
通称ヤッさんと呼ばれる、一見30過ぎくらいにしか見えないこのいかがわしい男は、1964年の夏には中学生だった。

人々が開発や五輪音頭に浮かれている最中に突然町から行方を眩ました中学生のカップルがいた。
カップルと言っても、この二人が仲良く歩いているところを目撃したものはいない。
娘は亀屋のマドンナと称賛され、男子たちの憧れの的だった。そんな裕福な少女を引き連れてヤッさんは消えた。
中学生の彼は大人が舌を巻くほどなんにでも長けた不良者だった。先生たちはいつも彼の居ないところで影口を言ったし、ある時ヤッさんが息子を袋叩きにしたと、怒りを露にさせて学校へ怒鳴り込んで来た恰幅のいいオヤジも、それを追及する担任も、最後に頭を垂れて謝るのは大人たちの方だった。
彼がどんな作戦を企てていたのか、同級生の誰もが不思議がった。
そんな悪知恵を幼いころから身に付けていた知能犯でもあったのだ。

この後二人が上京しているらしいとの噂を耳にしたのは、しばらくして五輪を観戦に行った誰かの口伝いによるものだった。
それからこの二人のことを口にする者はいなくなった。
単なる不良学生の健気な過ちとして、人々からはとっくに忘れられた存在になっていた。
たまに当時のことが小さなスナックで話しのネタになるくらいで
ヤッさんはいまはどうしているのか、という話しになると
、やれ土地ころがしで儲けたとか、いやどこかの小さな劇団で俳優になっているとか、飲んだくれの女垂らしに落ちぶれているやら帰ってきて土工をしてるやらと、彼を知る者なら誰も彼もがいい加減なことを口にしていたが、不思議と女のことを口に出す者は少なかった。
二人はその後すぐに別れて女は20を過ぎると外人と結婚した。どうして子連れ結婚だったのかは不明だが、いまでは海外でしあわせに暮らしているという。そう基地の便りを乗せて同級生の女たちには伝わっていた。
それだけ男たちにはショッキングな事件だったのだろう。
この町にとってヤッさんは稀有で目立つ存在には違いなかった。
それが数年前にはどうやら死んだらしいとの情報が故郷ではあたりまえになっていた。
派手な暮らしが祟り、借金から逃げるように身を隠した何処かの街で、作業中事故に巻き込まれて転落死したという。
遠い東国の果て、葬儀に参列したこの町の者は誰もいなかった。
それでも町の葬儀屋がその葬儀を担当したという同業者から聞いた情報は、故郷の人々にとってもこれは間違いない情報なのだと確信したのだ。疑う者さえ、いや、実を言うと疑うことすらも疑うのが怖かったのかもしれない。
ただ一人の若者を例外にして…。
しかし、それが、何故今になって…
…当然死んだと確信されていたはずのこの男が、何故か突然姿を現して、南口のホームに屯している若者たちを見つけては毎日声をかけていたのだ。


【予期された事柄はすでに予期されていたのだ】


(ね、あそこを通るといつも変なオヤジが聞いてくるんだってね)。

冷えた缶ビールの泡を口に流し入れ、その一息を煙草の煙で吐き出した。ぐったりとソファーにくるまれている。これは生ける物すべてに神が与えし至福の瞬間だ。
そんなときにいきなり見当もつかないことを切り出されて面を食らってしまった。
(友達の彼氏が言うんだって、あの南口の通路はできるだけ通るなって)

あの地下道はいつも通う道筋だが、なんのことか見当もつかなかった。








……つづく


自由詩 つるはしと亀おんな Copyright アラガイs 2013-09-12 03:44:54
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