小さな視点(詩評)
アラガイs


「リンゴの味覚はリンゴそのものには無く、 リンゴ自体は味をもたない、 リンゴを食する者の口のなかにも無い、 両者の接触が必要である 」。
これはアルゼンチン出身の著名な作家で、また詩人でもあるボルヘスが、その著者「文学を語る」に於いてバークリー主教の書物から引用した一説である 。詩を書く者にとって、著者はあまりにも有名な人物なので、ご存じの方も多いはずだろう 。
われわれ人間にも動物にも舌による味覚は備わっている。つまりここに言われる一説には、観念としてリンゴそのものが美味しいもので、食べるに値するものであるか否かという前提条件が、われわれには必要とされているということを意味している。
味覚とは食べてみてはじめて知覚される。
どうしてもリンゴが苦手なひとが、一度その味を知れば二度と手にすることもないだろう。
さて、ここに引用されたバークリー主教のリンゴの一説を、日々何かと忙しく巡視されるわれわれの瞳を癒し、やすらぎを与えてくれる花や自然の美しさに起き換えたらどうだろう 。
たとえば庭先に植えられた花や木の姿そのものに美しさはなく 花や木々そのものは美しさをもたない 。それをみつめるわれわれの眼にも美しさは映らない 。ではここで言われる接触とはなんだろう。それは視線による接触ではないだろうか。自然のなかに在って、みつめるものとみつめられるもの。植え付けられた花弁の色合いや、木の枝に息吹く葉形、この両者の感情がひとつになってこそ、われわれは美しさを感応できるのだ 。しかし、当然ながら花や木の感情をわれわれの眼で認知されることはない。つまりここで言う花や木をみつめる、若しくはみつめられるものとは、われわれが直接みる視点そのものと、それらから感受され作用されたわれわれのもうひとつのこころの視点なのである。
このふたつの視点が接触されてはじめてわれわれは美を意識し認知できる
あたりまえのようだが、感覚とはそのようなものなのだろう 。
鑑賞する、された絵画は自然を模倣する、或いは鑑賞する、された自然は絵画を模倣するという。このふたつの対象はセザンヌの絵画にみられる様に、彼が自然に即しみつめ続けた空間の構築が、その自然を超えてわれわれがみつめる絵画に存在そのものとして反映されるからではないだろうか。
物事を例えるときに、木をみて森をみない 、と、 評されることがある 。
詩の批評に於いては、定義されたように文節だけを取り出して、そこから自説を展開し解釈へと導かれることがある 。
しかし気をつけなければならないのは、詩がひとつの木の枝から派生しているのではないということだ 。
木やその枝の形状に眼を奪われるばかりではなく、それがいかに森全体へと結ばれ、若しくは派生しているのかを見渡せる批評でなければ、描かれたものの本質は見抜けないであろう 。









散文(批評随筆小説等) 小さな視点(詩評) Copyright アラガイs 2013-09-07 18:13:38
notebook Home 戻る