葉leaf

夢という視野は、原野でもあり荒野でもあるのだが、いつでも決まった角度で決まった方角をめざし、その視野の映像がどんなに枠からはみ出ようと、どんなに重なりこじれようと、観念と情念の間に架けられた橋の上に端然とたたずんでいる。視野に映り込んでくるのは、主に過去の夜空であったり、死んだ者たちの骨格であったり、地下深くに描かれた抽象画であったりするが、それが夢であるというただそれだけの理由で、すべては青空の飛沫を浴びて滑らかに磨かれていくのだった。夢という視野がまたたきを繰り返す、そのたびに降り積もっていく人生という文章の流跡、世間という蜘蛛の巣の粘性。だがあるとき人は、夢という視野が方角を見失う瞬間に直面して、現実の視野のさ中にすべての映像を取り戻そうとあがき始めるのである。夢という視野と現実の視野との関係は、都市と都市との関係に似ていて、それぞれ独自の特産品や工業・サービスを、偶然的に生み出された交通網を用いてやり取りする。現実の視野に比べて夢という視野はより深い階層にあり、より暗く、よりあいまいで、より緊密である。夢という視野がその方角と深さを見失ったとき、その上部にある現実の視野は支えを失い、至る所で陥没した地面に地雷がむき出しになってしまう。夢という視野と現実という視野は、このように無数の地雷でもってぴったりと重なっていて、永遠に爆発しないけれども緊迫した爆発可能性によって、どこまでも貼り合わされているのである。夢という視野は壊れるのではない。それは、方角を見失うことで一度折りたたまり、さらに深く暗いところでもう一度姿を変えて広がっていくのである。そのとき、その視野は「夢」という名前を失い、決して名指されないものとして、多彩なものの残像が集積した場として、認識を回避しながら意味もなく広がっていく。夢という視野がかつて商っていたもの、例えば飛翔感や憧憬や情熱などは、現実の視野が代わりに無償で配給し始める。夢が壊れた、それは一つの外傷であるが、同時に一つの治癒でもあり、現実はいよいよその薬理作用を強めて人の化学的組成をより美的なものへと変えていくのだ。夢が壊れた、それは緻密な彫刻的達成であり、そこから流れ落ちるすべてのものは名前と動きと覚醒を失い、同時に満々と湛えられた世間のまなざしと口ぶりへの奇襲を導く華やかな闘志となるのである。


自由詩Copyright 葉leaf 2013-08-30 15:00:07
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