あなたが初めて泳いだ夏
夏美かをる
ヒトの形をしているのが奇跡と思える位
あまりにも小さくて柔らかかったあなたを
退院後初めてお風呂に入れた時
私の緊張が伝わったのか
あなたは火がついたように泣き叫んだ
以来あなたが極端に水を怖がるようになってしまったのは
不器用な私のせいなのかもしれない
七歳になって週に一度のスイミングレッスンに通い始めたあなたは
同時に習い始めた妹がクロールと背泳ぎと平泳ぎをマスターした頃
ようやく顔を水につけられるようになった
それからは潜れる時間が少しずつ伸びていき、
突然ハァーっと大きく息を吸い込んだあなたが
とうとうバタ足を始めたのは
一緒にプールで遊んだあの夕暮れ時のこと
未だに「ママ、ハグして」と 一日に何度も甘えてくるあなた
臆病で神経質で病気がちで
いつでも全力で護ってあげなければ壊れてしまいそうなあなたが
その時いつの間にか私の五メートル先にいた
私がいくら手を伸ばしても遥か届かない場所で
輝く笑顔を私に向けていた
不意に上がった水しぶきに言葉をさらわれて
ただ立ち尽くしていた私の代わりに
歓声を上げながらハイタッチをしに行った次女の後ろ姿が
スローモーションの映像の中で徐々に滲んでいった
水から上がれば纏わりついてくる外気はひんやり冷たく
細すぎるあなたの手足にあっという間に鳥肌が立つ
たった一度きりの九歳のあなたの夏が
足早に通り過ぎようとしている
二年半かけて丁寧に丁寧に実らせ、あなたが自らの手でもぎ取った
鮮やかに光るその尊い果実を そっとバックパックの底にしのばせて
あなたは間もなく四年生の教室への階段を上っていく
少しずつ遠ざかっていく まだ頼りない背中を
追っていくことは もう私にはできない
来年の夏が逝く頃にはあなたは息継ぎを覚えているのだろうか?
私の何メートル先で あなたはくるりと振り返って
あの時と同じ笑顔を 私に贈ってくれるのだろうか?