心に鞭 —加賀武見へ—
平瀬たかのり

 男がいた
 一度は膝を屈し生まれ在所へ戻った
 そこまではよくあるはなしだ

 だけど男は
 厩へ戻ってきた
 きっとそのとき思ったのだろう
 もう俺にふるさとはないと

 体を鍛えて技を磨いた
 いつも勝つことだけを考えていた
 敗北は恐怖だった
 勝利こそ信ずるべき
 ひとつきりの思想だったのだ

 男を悪役と呼ぶ連中もいた
 気にしなかった
 泣きごとしか言えない奴らの
 負け惜しみにつきあう優しさなど
 さらさら持ち合わせていなかった

 男の前では
 本命も良血も大穴も未勝利も
 存在しなかった
 俺が勝たせる四本足の馬
 だけが立っていた

 芝は匂い
 馬体は今日も艶めいていて
 鞍を乗せれば鼓動は高鳴る
 眸には黒い炎
 蹄が轟く中
 風の塊を突き破れば
 ゴールはもうすぐそこだ

 それはもうずいぶん昔のはなしだ
 男がひとり
 夕映えの厩の前で
 心に鞭、ひとつ握りしめて
 確かに立っていた 


自由詩 心に鞭 —加賀武見へ— Copyright 平瀬たかのり 2013-08-16 21:28:51
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