夏、プールにて。
時子
夏の暑さに敗けない熱視線で、僕は君を見つめる。 
錆びて塗装の剥がれたフェンスが、昼間の熱を残していて手に焼き付くように熱い。 
月が浮かぶプールにソレはいた。 
あの夏、僕は人魚に出会った。 
***** 
「ほんと、残念だったなぁー」 
さして残念そうでもなく、顧問の鈴木はクーラーの効いていない職員室でうちわをパタパタ揺らしながら言った。 
派手なポロシャツの腹の辺りが汗でべったりと濡れて張り付いている。とてもじゃないが、運動部の顧問とは思えない体つきだ。 
「大会前に事故なんて…。お前には先生方も期待してたんだ。…まぁ、仕方ないな。松葉杖持って泳ぐか?」 
ハハハ、と鈴木は笑う。 
デリカシーの欠片もない。 
僕はその言葉に「すみません」とだけ返した。 
小さい声だった。 
制服のシャツの袖で額に浮かぶ汗をぐいっと拭う。 
ここは、あの青い水の中よりずっと息苦しい。 
高校最後の大会を一週間後に控え、僕は交通事故で右足を駄目にした。 
交通事故と言っても、車に直接ぶつかった訳ではない。 
トラックにひかれそうになったトロい猫を助けた際に、ガードレールにしこたま足をぶつけたのだ。 
医者の判断は骨折で、僕の足はあっという間にギブスで固められ、手には松葉杖を握らされた。
三本目の足は陸地で歩くのを助けても、水中で泳ぐのを助けてはくれない 
「本当に、すみません…」 
松葉杖の持ち手を、顧問にばれないようにグッと掴む。僕が悪いわけじゃないのに、僕は何に謝っているのだろう。 
あの事故にあってから、僕はわからない何かにいつも謝り続けている。 
うちの近所にトロという有名なノラ猫がいる。けしてゲームに出てくるような賢い喋る白い猫ではない。 
トロは名前の通り、何をするにもトロかった。 
餌を食べるのも、塀の上に登るのも、やる事なす事とにかくトロい。だから皆トロと呼ぶ。 
そのトロが最近、僕にまとわりついてくる。 
僕が足を駄目にした日、助けた猫は道路のど真ん中で昼寝中のトロだった。 
トロいなりにあの事故の事を気にしているらしいが、猫に気を使われてもなんの気休めにもならない。 
「もう、いいから。お前のせいじゃねーよ」 
最初の何日かは、僕も気を使ってそう言ってやっていた。でも、トロは「のぁー」と気の抜けた声で鳴くだけで全くついてくるのをやめない。 
大会があろうがなかろうが、もう高校三年の夏休みだ。 
受験勉強を本格的に始めてしまえば、すぐに泳ぐ事なんて忘れてしまうだろう。 
むしろ、今まで部活ばかりで勉強をしてこなかった僕にとって、今回の事故は学業再開のチャンスだとさえ思う。 
なのに、トロがいるから忘れられないのだ。 
あの感覚を。 
あの狭いプールの中に広がる、青い世界を。 
「トロのせい、だ…」 
口に出すと本当にそんなふうに思えてくる。 
言葉って不思議だ。 
トロが寝ていなければ事故にあわなかった。 
顧問に嫌味を言われる事もなく、大会にだって出られた。嫌いな勉強だって、後回しに出来た。 
あの青い水の中を、いくらだって泳いでいられたのに。 
泳ぐことが、あの水の中にいることが、僕の青春だったのに! 
「ちくしょう…!!」 
そう考えると、楽になると同時に、僕は自分の感情にブレーキが聞かなくなった。 
気付いた時にはもう、落ちていた空き缶をトロに向かって思いきり投げ付けた。 
トロはトロい。 
缶はトロのお腹に当たり、トロは悲鳴をあげて逃げた。 
「ちょっと君!!何してるの!!」と後ろから知らない女の人に叫ばれ、僕も逃げた。 
松葉杖の足は、逃げるのを許さないように重かった。 
ごめんなさい。 
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。 
トロごめん。わかってるよ、ごめん。 
ごめんな。 
走って走って、涙で息が出来なくなった。 
僕はまた謝っている。 
薄暗い道で何度も転んだ。その度に右足が痛んだが、引きずって逃げた。 
長い時間をかけて行き着いたのは、白い月の浮かぶ夜のプールだった。 
「あ、…っ、」 
プールサイドにトロがいる。 
ぷらぷらと満足そうに尻尾を揺らし、ウトウトしながら撫でられている。 
涙がポロっと落ち、転んで汚れたギプスを塗らした。 
撫でているのは、誰…? 
錆びて塗装の剥がれたフェンスを掴む。昼間の熱を残していて手に焼き付くように熱いそれを、僕は形を変えてしまうくらい握り締めた。 
息が出来なくなった。 
女の子の足は海のような、空のような、不思議な青い鱗で覆われていた。 
「この子は怒ってないわ」 
女の子はトロを撫でながら呟いた。 
「むしろ、これで当然だと思ってる。この子は毎日、アナタがこの狭い海を泳ぐのを見ていた。自分のしてしまった事を考えれば、空き缶を投げ付けられるなんて気にならないって。」 
トロが尻尾を下げて、申し訳なさそうに僕を見た。 
僕は何も言えなかった。 
「そんな所にいないで、こっちに来るといいわ。鍵は開いてるから。ねぇ、マグロ」 
「…マグロ?」 
「この子の名前よ。知らなかったの? 
」 
初耳だった。 
トロは本当はマグロという名前だったのか。 
鍵の外れたドアを恐々押し開け、僕はプールサイドを歩いて二人に近づいた。 
マグロは僕の足にすりよって来て、ゴロゴロと喉を鳴らす。僕はゆっくりと屈んで、お腹の辺りを震える指で少しだけ撫でた。 
トロは満足そうに、また「なぁー」といつものように気の抜けた声で鳴いた。 
「それにしても、狭い海だわ」 
女の子は言った。 
「こんな狭い海を泳いだくらいでやれ 
青春だと意気がって、他の世界を知らないのね。井戸の中の蛙と一緒だわ。」 
「海じゃない。プールだよ。それに、泳ぐ事は本当に僕の青春だった…!」
反論したら、彼女は尾びれをピシャンとして僕を水浸しにした。 
ひさしぶりの塩素の匂いのする水が甘かった。 
びしょびしょの僕が怒る前に、彼女は真夏のひまわりみたいにカラカラと笑って言った。 
「海に出るのよ、蛙さん。」 
彼女は不思議に通る声で言う。 
「泳ぐのをやめろとは言わなわ。泳ぐのは素敵な事だもの。でも、プウルとやらには波がないわ。だから水が濁るのよ。水が濁れば、目も濁る。もっと広い世界を見なさいな。」 
「広い世界…?」 
ニコリと微笑んで、女の子はプールに飛び込んだ。長い髪がユラユラと揺れ、鱗が月の光に反射してキラキラしている。 
ぷはっ、と女の子が水面に顔を出したとき、プールは境界線を消して海になった。 
そこは、僕がいままで見たことのない世界だった。 
「さよなら蛙さん。海を目指して、またその足で泳ぎなさい。」 
そう言って、女の子は海に消えた。
あの日から、マグロと月が浮かぶプールに行くのが日課になった。 
もう秋になる。 
僕は受験勉強を始め、松葉杖のかわりに鉛筆を握って今を泳いでいる。 
おわり。