克服
破片(はへん)



 人類は死を克服しました。

 誰も死なない世界では、妊婦だけが、処刑される。誰も死なない世界で、やはり誰かは死んでいく。温度の少ない電流が臓器を浮かせて、細動を引き起こす。使いものにならなくなった肉体から、世界が脱け出していく。血液が腐る。昼も夜もなくなる。

 遠い銀河の星々が、誰かを、遮光カーテンの隙間から覗き見ている。性器に宛がわれる手のひらが遥かな背徳を握り込んでいた。手のひらを操る誰か、彼はもう三百年は生きていて、天体観測を趣味に持たなくても、幾つかの星が死んでいく、その葬送に立ち会うことが出来た。精液を塗り込められた手のひら、彼の手首には幾条もの深い傷が刻まれている。彗星は三十年前に滅びた。星々は彼の手首にほうき星を観測できただろうか、遠い異世界の果てから。

 あらゆる生物に、昼と夜とは平等に与えられ続けた。そして、世界も、今まで通り、誰にも何にも手心を加えないことをもって、人類にとって普遍的な観念であり、またその意思が表出することなどないまま、脅かされようとしている。煙草のパッケージから健康への影響を示唆するメッセージが、全て削除され、脳の血管が太くも厚くもならないかわりに、極限まで破れにくくする技術とその下地になる、五百年前からは考えられないほどの剛性と耐久力、持久力を持つ細胞の遺伝子が誕生した。誰もが日焼けによる痛みを笑いながら自慢し合っているこの場所で、人類は死を克服したから。

 女性は妊娠する。それは男性が存在するためで、或いはこの世界で男性は伐採されるべきなのかもしれない。生まれてから百年経とうが、二千年の間生き抜こうが、妊娠した女性は刑に処される。でも本当は、母やお母さんなどと呼ばれる存在が消えていいわけがない。矛盾だと何処かで囁かれる。およそ三百年前、百万の母親が同時期に処刑される、大規模な、いわゆる魔女狩りのような執行があった。その頃世界人口は一千万人ほど減少した。誰も死なない世界で。誰もが死んでいった。

 わたしは何処で何をする人物か、というと、一介の男性でしかなく、三百年そこそこしか生きていない若輩者であります。近頃太陽の、真円の閃光が歪むのを稀に目撃するようになりました。恋人がいます。万が一にも子供を孕ませてしまったらと思うと碌にセックスが出来ません。自分が不通になるのではないかと不安に駆られるとき、マスターベーションをしてから就寝するようにしています。そろそろ恋人との子供が欲しいと思います。それを知った恋人はどんな反応を見せるのか、どんな返答を返すのか、わかっているつもりです。だから絶対に言わないし、絶対に求めない。

 摘出されないまま体内に残留する子宮はとても残酷で、その機能を手放したりはしてこなかった。それは精巣についても同じことが言えるだろう。人類の意思が枯れ果てることは永劫なく、人類の行動への抑圧だけが百年ごとに強まっていく。誰の、何の手によるものなのか誰も知らない。
 わたしは煙草に火をつけました。デザインだけを追求したパッケージ。いつの間にか朝を迎えていて、いつの間にか茹だるような正午を過ごし、わたしは、いつの間にか夕日が沈むのを窓に取り付けられたカーテンの隙間から眺めていました。立ち上る煙とにおい、人体にとって有害なはずのニコチンやタール、窒素酸化物を肺胞に取り込んでも、いつからか、何も感じなくなりました。しかし姿を変えていく黄昏を見ている時は違います、いつになっても。恋人が家に来る約束をしていました。最近は夕方になっても気温が四十度を下回らないため、多分、日傘を差してくるでしょう。どんな人かって? 見た目でしょうか? その内、話してあげたいと思います。
 彼は煙草を指で挟み込むようにして手に持ち、口元と灰皿とを往復させる。脳内の血管は収縮も拡張もしない。次第に煙草を挟んだ彼の指先が僅かに透けていった。少しずつ、透過の度合いが強くなっていく。指先から腕へ、そして肩、胸、首と腰回り、頭の天辺から爪先まで透けるようになって、どんどん、色彩も、視認できる存在自体が希薄になっていって。人類は死を克服したから、

 凄く美人ですよ、あなたには見えないだろうけれど。凄く綺麗な声ですよ、あなたには聞こえないだろうけれど。凄く、優しい方ですよ、わたしには勿体ない方です、あなたは感じないだろうけれど、ね。

 処刑されるためだけに、母親になろうとする女性だけが、存在を強固にしていく。彼の恋人は玄関先で、楽しそうに笑いながら一人で喋っている。それを驚くことのできる者が誰もいないのが、彼女にとってはほんのちょっぴりの不幸だったかもしれない。彼の言った通り、彼の恋人はとても美しかった。


自由詩 克服 Copyright 破片(はへん) 2013-08-10 12:37:31
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