岬の家
佐東



風の強い日 姉さんは洗濯物になる
海からの風は 姉さんを裏返したり表にしたりする
はたはたと身体の鳴る音にいちいち反応しては
子供みたいにはしゃいでいる
時折 砂混じりの風が当たると
途端に怒り出し
生乾きのままクロゼットの奥に入ってしまって
夕食まで誰が呼んでも出てこない時がある

海からの強い風を受けて ぐにゃり と曲がった防砂林 蛇行する道の傍らで 彼の岸まで手招きをするように寄りそっているハマヒルガオの群れが砂混じりの風をうける いきものの侵入を拒み ざわざわと うねる

姉さんのはなうたが遠くから聴こえてくる 砂に混じる 夕立のにおい 呼応するように 黒く圧縮された午後の雲が視界を遮り 垂れ下がる
空との境目がわからない黒く塗られている海
ちぎれた風が 短い母音で波濤にあたってはくだけちる

だれも知らない だれも見たことのない 海の腹を突き破る船の舳先のような岬のとったん 家がある
ぼくは そこでうまれた







夏の始まりに 海の鍵を開ける
夏が終わると同時に 海の鍵を閉める
代々受け継がれてきた我が家のしきたり
とても重要な儀式なのだ と父さんはいう

父さんは とても寡黙な人だ
毎朝 早くから牛乳の空き瓶の中に入り込み 新聞のコラム欄を切り抜いては スクラップブックに貼り付けている
ある朝 牛乳配達の人が間違って父さん入りの瓶を回収した時でさえ
三日間 誰も気が付かなかったくらいだ

昨夜から風がない
姉さんの袖口も乾かない
父さんは朝から義足の手入れに余念がない
夏の始まりが近いのだ







海を望むキッチンに出窓がある 夏が近づくと母さんは決まって 開き窓の蝶番に鯨油をさし始める
もう四年も続いている母さんの
夏の始まりの ひそやかな儀式
蝶番から祖母の声がするの と言っては油をさし続ける
祖母は生前 出窓から望む海を好いており 沖合いを行くちいさな鯨の群れを 祖父だ と言ってきかなかった
四年前の風のない夜 祖母は消えた

真夜中の波打ち際で 全身を青白く夜光虫のように発光させて 少女のような声色で はしゃいでいる祖母を見た と近所の漁師の語る声が 浜に打ち上げられているのを拾った 
それ以来 祖母を見たものはいない


食われちまったのさ 海に!

母さんは 鯨油をさしながら ぶっきらぼうに言い放つ
キッチンの床には 蝶番から溢れた油で ちいさな海ができている 窓から洩れる月あかりが 青白く反射している 母さんは 全身を青白く発光させながら 鯨油をさし続けている







風がとまって 二日目の午後
父さんから 手のひらに収まるほどの ちいさな古い鍵を渡された

お前がやれ

それだけを告げると 牛乳の空き瓶の中に入ってしまった そうなると父さんは 誰が呼んでも応えなくなる
手のひらのそれは ずしり と重い
代々受け継がれてきた重さ 腕が 震えているのがわかる

うまく できるのだろうか

誰にも見られてはいけない
誰にも感づかれては いけない
夏の始まりを告げる儀式

父さんは昔 一度だけ 失敗しかけた事があるという 片方が義足なのは そのときの名残だ

ぼくに できるのだろうか

相変わらず 風は止まったままだ







その夜 夢を見た
波のない海の底から 夥しい数のフナムシが這い出てくる そいつは ぼくの部屋へ 寝ているぼくの身体中を覆い尽くしてゆく 蟲という蟲の 無数の触覚が 脚が ざわざわと這い回り 身体中の穴という穴から なだれをなして侵入してくる 内側から ぼくを食らうのだ
血管という血管 臓物 筋肉組織 神経細胞までも びちゃびちゃと音を立てながら 食らい尽くす 遠のく意識の中で 波のない海の底のうたを聴いている

こんな話を聴いたことがある
この辺りの漁師の言い伝えで 海に食われた者はフナムシとなり 風のない 夏の始まりの禁漁日の夜に 海に出た者を波の底に引くのだ という
祖母が消えたのも そんな夜だった

すでに身体の動かなくなっているぼくを 父さんは抱きかかえて浜へ降りる 膝まで海に浸かるところで ゆっくり両腕をはなして ぼくを波に乗せる
ぼくの身体は ゆったりとした波にうつ伏せにされたり仰向けにされたりしながら だんだん浜辺から遠のいてゆく
テラスで姉さんが 乾かない袖口を ひらひらさせながら はなうたをうたっている
とうとう 食われちまうのかい!
母さんが怒ったように言い放つ
膝まで海に浸かった父さんが ゴマ粒のようにちいさくなったところで 声にならない声を上げて 起き上がると
辺りは まだ
青白い月のひかりに
支配されている

ぼくは 心臓の上に
手のひらを あてて
夏の始まりの 波の呼吸を
確かめる







翌朝 誰よりも早く眼を覚ます
牛乳配達の人よりも
父さんよりも 早くに

古くてちいさな だけど確かな重量のある鍵を握りしめて
浜へ降りる
いきものの気配は しない
風は まだない

波打ち際を 防砂林の見える方角へ
歩いてゆく
ちいさな波の 白い子どもたちが
しゃらしゃらと 声を上げながら
くるぶしにあたり 消えてゆく
消えてゆくために うまれてくる
太古の海より受け継がれてきた
波の営み

しばらく歩くと 波打ち際に
ちいさな鍵穴がある
海の鍵を 持つ者にしか
見えない鍵穴

鍵をさし込む
夏を告げる波が
沖合いから ざあーーと
やってくる音が聴こえてくる

姉さんの はなうたを乗せて


ぼくは
ふるえる右腕を
左手でおさえながら
ゆっくり 鍵を回す







自由詩 岬の家 Copyright 佐東 2013-08-07 13:10:16
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