りんごのこと
はるな


コンビニエンスストアで売っている、ひと口でたべられるゼリーは、ふたのビニールを開けるときにぜったいになかの汁がとびでてくるので、指がべとべとになってしまう。だから夫はそれを食べない。
夫のいない平日の休み、予定がなくて家にいるときはあまり食事をとらないわたしのために、それを買ってくるのは、でも夫だ。自分ではひとつも食べないのに。

それから、夫はりんごの皮もじょうずに剥いてくれる。皮に包丁をあて、くるくるとりんごを回しながら剥く方法で。わたしは料理は好きだけれど、りんごの皮を包丁で剥くのができない。ピーラーがあるし、困ったことはないけれど、夫はそれを重大な問題だと言う。彼はりんごの皮はピーラーで剥くべきでないと考えているのだ。

わたしは、眠りながら考えていたのだけど(眠りながら考える、ということに関しても夫はきびしい。ひとはそれをできない、少なくとも自分の意思ではないと)、わたしがわたしの腕を切ったりするようになって十年間が経った。十年ほどまえにはなにしろ絶望していたし、いまより頭も悪かったので二十になれば死ぬものだ(あるいはそうしなければならない)と考えていた。そしてその二十からもさらに五年間が経ってしまった。夫とは知り合ってから六年が経つ計算になる。夫とは四年と八か月、年齢がちがうので、夫と知り合ったころの夫はいまのわたしよりもすこし若かったことになる。十年前から、わたしの知っているひとびとの多くは十年ぶん年をとったし、なくなってしまったものや、あたらしく発生したものもある。わたしの左腕は、わたしの右腕とはすこしちがう。夫は腕を切らないわたしを知らないということになるし、あとさらに五年たって、わたしが腕を切るのをやめていなければ、わたしは生まれてきてから腕を切らないで過ごした期間のほうが短いということになる。わたしがあと五年後も生きていて自分のからだを使うことができる状態であれば。

でもこんなのは、(こういう数字は)、あまり重要にすることでもない。
なぜなら、いまは、夫―かつての恋人―がいて、冷蔵庫にはゼリーがあって、りんごの皮を剥かなければならないときにはピーラーを使えばいいし、それもないならりんごは飾っておけばいい。
なにもどうしようもできないし、何もかもを思い通りにすることができる。世界は終わったり、はじまったりする。進んだり戻ったりする。ちょうど、わたしたちが悲しんだり喜んだりすることと同じように。きょうは明るい。日が差している。きのうからきちんと眠っていないので肌が乾いているが、気分は平らだ。うす鼠色で、灰色で、なにもない。そうして、白い、壁の前にすわり、文章を打っている。これもすべて意味のないことだ。でも、意味がいったいなんだっていうんだろう?よくわからないけれど、わたしは生きていることにした。そのてんについて、わたしは、ふかいあきらめと決意を持って、嘘をつき通していくのだ。



散文(批評随筆小説等) りんごのこと Copyright はるな 2013-07-02 14:21:55
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