地獄の闇ナーベン!! の巻
ホロウ・シカエルボク
これは…
今年の六月のある日
高知県高知市の中央部にある
一件の古い住宅の中で
起こった出来事である…
「軽い気持ちだったんですよ。」
その家の住人、O氏(匿名希望)は、台所を片付けている途中で空腹を感じた。
米は炊かなければならない。
何か買いに出てもいいが、台風が九州の方に居て、表は雨がしとしとと降っている。
午後には温帯低気圧に変わるらしいが、今日のうちには晴れ間は期待できそうにない。
何を食べるか、一つは決まっていた。
昨日近所の総菜屋で買った、クラゲの酢のものである。
他には、インスタントラーメン(みそ味)。
「あのとき、どうして自分がそんなことを考えたのか、いまでも判らないんです、何かに操られていたとしか…。」
そう語るO氏は、食後だというのに何かやつれて見えた。
話を数十分前に戻そう…鍋を用意し、湯を沸かし始めたO氏の頭に、ある考えが浮かんだ。
(この酢のもの、ラーメンの中に入れてみようか?)
いや、そんな馬鹿な、と、もちろん一度は否定した。だが、あろうことか、ここで彼は、考えを変えてしまうのだ…。
(世の中には酢が入ってるラーメンだってある。あれはいいものだ。確かにトマトも入ってるけど、トマトラーメンなるものだってあるじゃないか。高知にだってトマトラーメンの専門店があった。あっという間に潰れたけど。)
よし、やってみよう、というジャイアント馬場の様な気軽さで、彼は沸き立った湯の中にクラゲの酢のものをぶち込んだ。
「本当に大丈夫かな、という思いもなくはなかったんです。でも、その味はきっとひとつにまとまるだろうと、なぜかそう確信していましたね…。」
念のためにじっくりと煮込んだあと、ウィンナーを入れ、卵を落とし、蓋をして少し待った。
「今にして思えば、あのときもう異常なにおいがしていたんですよ。なにかこう…ちょっと表現出来ないような類の…。」
とうとう彼はラーメンを入れた。スープを入れ、味が薄くなることを懸念して塩、コショウを少しだけ振った。
「胡瓜の輪切りがね、すごく黒ずんでましたね。」
そうして、ラーメンは出来あがった。闇鍋のようなノリだったので、彼はそれを闇ナーベンと名付けた。胡瓜の輪切りはその時にはもう、海辺によく落ちてる破れた投網のようになっていたという。
テーブルに置き、箸を手に取り、いよいよ食べることとなった。まずはウィンナー…予想通り、みそスープと酢の味が上手く混ざり合って…彼はうん、と頷いて麺を啜った。
「あっ…、と思いました。甘いものなんかひとつも入っていないのに、なぜかべっとりとした甘みを感じたんです。それからスパイスの味がやってきて…」
勘弁してくれッ、この世のものじゃないッ…、と、彼は思ったという。だが、彼は、食べ物を残すのが嫌いな性分だ。こうなったら食うしかない…そう覚悟を決めて次々と啜り続けた。
「あの瞬間ですよ、ああ、馬鹿なことやっちまったナって…本当に後悔しました。遊び半分でやっちゃいけないんだって。」
もう、食事のおともで流している、YOUTUBEで見つけた昔のアンビリバボーの動画もろくに目に入らなかった。怖い写真なんかよりずっと、恐ろしい思いをしていたのだから…。
何故だろう、舌が痺れてきた…。きっとコショウのせいだ、と言い聞かせて、彼は食べ続けた。ゾゾーッ、ゾゾーッ…、麺が少なくなってくると、その下に隠れていた酢のものだった具材が、どす黒いみそのスープの中にゆらゆらと浮かんでいる。それはまるで、昔種崎海水浴場で見た、汚れた波打ちぎわのクラゲによく似ていたという。まあ、クラゲには違いないのであるが…。
いよいよ、残されたのはその酢のものであった具のみとなった。スープは残そう。その頃には、もうそう決心していた。意を決して口に運ぶ。その姿はまるで、キリストの絵を踏まんとする隠れキリシタンのようであったという。
ウッ、酢のものだっ…。
それはただ、酢のものがあったまっただけの代物だった。徹底的に煮込まれ、インスタントラーメンのみそスープと和えられた酢のものだった。そのとき彼の頭の中には、天地が揺らぐほどの衝撃と絶望が渦を巻いていたという。
頑張れ、頑張れっ…自分を鼓舞しながらひとつひとつ口に入れる、噛む。畜生っ、何でこんな思いをしなければならないんだ。彼の頭の中で尾崎豊が寂しい目をして呟いた。
「No One Is To Blame…誰のせいでもない。」
ああそうだよ、あんたの言うとおりだチクショーメ。
かくして彼は、そのおぞましい闇ナーベンを食べ終えた。食休みもなしに器を台所に運び、僅かに残ったスープを流しに捨て、水をじゃんじゃん出した。早く流してしまいたかった。彼をそんな思いにした、彼自身が作りだした怪物の痕跡を。
そして、冷蔵庫から三矢サイダーを出し、氷を入れたグラスに注ぎ、うがいをするように口に含みながら少しずつ飲んだ。原因が良く判らない舌と唇の痺れはまだ消えていなかった。早く消し去ってしまいたかった。
「考えてみれば、酢のラーメンもトマトのラーメンも、みそ味じゃないですよね…勿論痺れはまだ消えていません。」
と、O氏は自嘲的に言った。
「せめて、夕食には、きちんとしたものを食べるつもりです。」
そう言って哀しく笑う。窓の外では強く降り始めた雨の音が辺りの屋根を叩いている音だけが静かにこだましていた。
【了】