テイク・ザ・ドラゴン
済谷川蛍

 私たちは稀少なドラゴンを撮影しに行った。標高4,222mのシヴァ山は、ドラゴンの住処の一つとして世界のあらゆる教科書に記されている。この世界の大いなる神秘は市井の人々に好奇心や甘美な心象を喚起させ、崇高なる自然に対する畏敬と幾つかの宗教を産んだ。未だ多くの謎に包まれた歴史と生態に関する様々な憶測は神格化された幹を作り、様々な研究分野の枝を伸ばしていた。神話の世界にも登場するこの伝説的な生物はあらゆる権威の象徴として多くの人間たちに必要とされ利用されていたが、今日に至るまで人間を寄せ付けず山を降りることもない孤高の城主であった。ドラゴンは住処である洞窟の前の広場にて時折その姿を見ることが出来る。崖で囲まれたその広場から5キロ圏内は立ち入り禁止だ。ドラゴンの絵が印刷された貴重な地域通貨42万カインドを支払ってこの山に登れる者はごく僅かである。
 「いよいよですね! バーノッグさん」と私を見上げたハートルの愛着に満ちた眼差しに勇気づけられたが、「うん」と素気無く答えた。私たちは山へ足を踏み入れた。花が咲いている。そんな当たり前の光景が妙な非現実感を伴って映るのは山の魔力によるものか、恐れによるものかなどと考えているとハートルがその花の名前を挙げて説明をし始めた。私がどうでもいいと思っているようなことを何分間も喋り続け、少し可哀想に思った。しばらく登山を続けていると前方に黒いフードに身を包んだ巡礼者の列が見え、彼らの謹厳な鈍い足取りを追い抜いてすれ違う際怪しげな祈りのようなものが聞こえた。「ユージュゲラン教の人たちですね」とハートルが囁いた。私の文明人の頭は彼らを軽く見下したかもしれない。ドラゴンはしょせん私たち同様動物であり、神の世界から使者として舞い降りたという伝承は知的ではなかった。
 ドラゴンを見るのは私の夢だった。いや、そうではない。ただ何となく定めた目標だった。私は長らく自由を求めて日常をさすらっていたが、私の得られた自由は水槽の中で魚が味わう自由に過ぎないと思った。私は懊悩と思索の末、目的に向かって行動するしかないのだと思った。この世界に存在するものにリアルに接し、新鮮な感動やあらゆる価値を見出すことが人生を彩るということなのだ。自由の海を泳ぐ名人であるハートルとの出逢いもあった。
 陽が落ちて夜更け頃になると、楕円形の花びらを持つ花の芯がぽつぽつと光を放ちはじめた。赤や青、緑や黄色に。私もハートルも感嘆の声をもらし、カメラのシャッターを押した。芸術品を扱うようにそっと花に触れた。道の先や周囲に点々と光が灯り、私たちは幻想的な絵本の世界を歩いているようだった。崖からは綺羅星を散りばめた青い夜空が世界を覆っているのが見えた。テントを張って荷物を全て降ろし、仰向けになって宇宙と対面すると自分の存在が心地よく溶けていき一つの星になる。スープにハートルが薬草だといって細かく切ったのを混ぜた。へとへとになっていたので2人とも寝袋へもぐり灯を消した。
 朝は冷え切って寒かった。目的の場所へ向かってひたすら進んだ。夕方になってやっと辿り着いたがドラゴンの姿はなかった。何もいない広場は夕陽に照らされていた。ユージュゲラン教の巡礼者たちが地面に膝をついて祈りを捧げている。ハートルが広場に入る許可を取れると言った。彼が師事している教授の名前と学生証を守衛に提示すれば命の保証はないが奥に進めるのだそうだ。無論ハートルは私が笑って断ると思いながら、やりきれないジョークのつもりで言ったのだろう。私が「そうか、じゃあ広場へ行く」と言うと、初めは笑っていた彼も徐々に深刻になって反対した。私たちが揉めていると巡礼者が奇妙な発音の言語を発しながら私に詰め寄った。ハートルが恐る恐る「貴方はドラゴンに喰い殺されるだろう」と訳した。このときの私の強がりはハートルにとって不気味に映ったかもしれない。ともかくドラゴンを見れないなら、可能ならばせめてあの広場に立ちたいと思った。それが私の意地だった。細い道を慎重に歩いて私とハートルは広場へ立った。一瞬、まさかと思った。洞穴からドラゴンがジッとこちらを見ていた。幽かな唸り声を響かせ私を洞察していた。私は自分という取るに足らない存在が間もなく世界から消え去るのを傍観していた。そんな運命を変えたのはハートルだった。咄嗟にハートルが私の前に立ったのだ。彼は私の愚行を身を挺して庇ってくれた。ドラゴンとハートルの間で、言葉を交わさないどんなやりとりがあったのかはわからない。ゆっくりと、私たちは広場から退いた。
 それから間もなく、ハートルが死んだ。彼は死ぬべき人間ではなかった。しかし5年前、嘘のように交通事故で死んでしまった。ドラゴンと対峙した呪いだろうか? ドラゴンに運命を捩じられ曲げてしまったのだろうか? 私はハートルとともに生き続けるという人生の目標を失ったのに当たり前のように存在する日常の奇妙さを、読書しているときや酒瓶を口につけた瞬間などにふと思い出すことがある。
 「写真を撮ることは理解の証なんだ」
 ハートルの言葉が頭に響く。
 あの日から私が写真を撮らなくなったのは、神もこの世界も、理解したいと思わなくなったからかもしれない。


散文(批評随筆小説等) テイク・ザ・ドラゴン Copyright 済谷川蛍 2013-06-17 02:13:11
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