血縁
葉leaf

使い古されたこたつテーブルにCDや本を平積みにして、それらのもたらす光彩に自然な無関心で向き合い、もはや暑苦しいだけで役目を終えたこたつ布団のひそかな熱に足を包んで、私はいつもの部屋にいつもの姿で座っていた。だがそのようないかにもありふれていて湯水のように使われそうな情景のただ中にありながら、そんな情景にひびが入って何か新しい世の中でも生まれそうな気配が漂うときがある。もちろん部屋の情景は何一つ変わらない。だが、部屋が家の構造の中に位置づけられ、家の歴史の中に位置づけられるとき、それはもはやただの部屋ではなくなってくる。部屋が一つの細胞のように、機能し、変化することに気付いたとき、その細胞の中の一つの器官としての私もまた、より大きな構造と歴史の中に組み込まれていることが分かってくるのである。そんなとき、自分に押された、産まれたときから押されっぱなしである烙印の痛みに気付かないだろうか。それが血縁という烙印である。血縁はすべてを説明してくれる基礎哲学ではないだろうか。私がこのような姿かたちで、このような性格で、このような人生を送ってきたことを、余すことなく説明してくれないだろうか。そして、そんな基礎哲学には当然憎しみを抱く。哲学が理論で説明できない暗部、そこにこそ真の私は存在しているのだ。特に、父の姿が、外で仕事をしている父の姿が想起されて、私はそれを上回る膨大な熱量の海でその父の姿を呑み込んでいこうとする。やはり血縁は哲学などではなかった。それは無限の無意識のようなものだ。逆に言うと、不意にぽつぽつと降ってくる雨のようなものだ。むしろ私の抵抗の方がずっと理論的で哲学の名に値する。父と母がいて、その上には祖父と祖母がいて、さらには兄弟がいて、そんな烙印の連鎖がとんでもない深さと連続性で私の何もかも、とくに私の秘密や隠し事までをも物語の一章と化してしまう。私の矮小な意識など、その言葉を超えた物語を拙く批評することしかできないのである。そして血縁は窓を開く。そして、開かれた風景にさらに窓を開き、窓はどこまでも連続して開いていく。私は性的に私である。性的に動物と、植物と、鉱物と、欲望し欲望される関係が初めからできていたことに気付く。血のつながりは欲望のつながりであり、恋愛はすべて姿を変えた血縁である。愛し合う者同士はお互いに血縁を与え合って、また奪い合っているのだ。私は道を歩き、野良猫に血縁的に欲望し、野の花に血縁的に欲望し、石ころに血縁的に欲望する。空間とそれを飾る有機体たちは、どろどろとうねっていく血縁の海に一括りされ、私は何もかもと結ばれ、全てのものに烙印を押しまくる。復讐だ! 自分に押された烙印を、世の中に押し返していくこと! 例えば履歴書には私の烙印が押されている。それでもって企業に私の烙印を執拗に押し付けてくるのだ。私の人生は血縁に対し血縁でもって復讐する、ただそれだけの物語だ。




自由詩 血縁 Copyright 葉leaf 2013-06-13 05:09:39
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