前の家のばあさん
オイタル

前の家のばあさんが死んでしまった
腰より低く背を曲げた八十いくつのばあさんだ
息子夫婦は遠くに住んで
干からびたみたいな平屋に一人で住んでいたが
隣近所に迷惑のかからないように
死んだら近親者だけで葬式を出してくれというのが
遺言だったそうだ

もう何日もお天気が続いて
少しはお湿りも欲しいと誰もが思っていた頃だった
結局ばあさんの死んだ日にも雨は降らず
残された六十の息子が手土産を持ってやってきた次の日
久しぶりに少しだけ雨が降った
でもそれだけだった

いつもお世話様で というのが
ばあさんの口癖だった
手押し車の前かごに買い物袋を入れて
褪せたような夕焼けを頬に映して 暮れ方
ときおりうちにもお土産なんかを届けてくれた
お世話なんてちっともしなかった

何十年も隣に住んで
水臭い とは 家人の言葉だったが
ぼくは素直にはうなずけなかった
水道の蛇口がバカになって
ドアの陰で止まらない水音がしていた

死ぬ前に ばあさんは
近くの葬儀場からパンフレットを取り寄せて
こんなふうに こんなふうにしてもらってと
家族に託けていたそうだ
広い駐車場に風が吹いている

ぼくはもう二度とばあさんを見ることはないのだ
ばあさんを見ないままぼくはあと何十年かを生きるのだ
やがてぼくは腰より低く背を曲げて
干からびたみたいな家に一人で住むことになるのだろう
そうしてぼくは いったいどんな言葉をこの家に
残していくのだろう
死んだら近親者だけで葬式を
なんて言うんだろうか それとも

青空の下に出て 前の家の裏庭を見る
黒い窓 汚れた壁
白い花に囲まれたりんごの木 降りてきたカラス
壁にかかったブルーシートが大きく風にあおられている
それらをいちいちちょっとずつ確認し
それからゆっくりと
ぼくは暗い家の玄関に 踵を返している


自由詩 前の家のばあさん Copyright オイタル 2013-06-01 15:51:42
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