「悲しみ」についての考察—決定論を参考に—
中川達矢

野矢茂樹『語りえぬものを語る』講談社、2011年ちなみに野矢は決定論に対して批判的な立場である
最近、悲しみについて考えることが多くなった。
そこで、その悲しみを乗り越える(?)べく、悲しみに関する考察を述べてみたい。

悲しみはどこからやってくるのだろうか。
唐突に空から降ってくるものではない。
原因と成りうるような出来事に遭遇して、悲しみが後からやってくる。
これがもっともらしい説明だろう。だが、果たして、本当にそうと言えるのだろうか。

ここで、一つの考えを参照したい。
「決定論」である。
野矢茂樹の著作を参考にまとめてみる。*1
1.「すべてのできごとには原因がある」=「因果律」
2.「同じ原因に対しては同じ結果が生じる」
以上の2つをその特徴として挙げている。
これをもう少し噛み砕いてみる。
例えば、「手に持っているペンを離すと落下する」。
ペンが落下する、ということには、持っているペンを離すという原因がある。これが1の特徴。
そして、持っているペンを離すといつだって、どこだって、だれだって、時場所人を問わず、ペンが落下する。これが2の特徴。
これで、決定論の特徴がつかめただろうか。

さて、この決定論を悲しみの場合にあてはめて考えてみよう。*2
悲しみには原因がある。
例を挙げれば、大事な物を失くした、近親が亡くなった、雨が降ってるのに傘を忘れた、などなど。
これらの例は、原因として悲しみをもたらし(1の特徴)、たいていの場合悲しみをもたらす(2の特徴)。
悲しみの原因はある程度特定できるものだと言える。
だが、ここで一つ物を申したい。
悲しみの原因は「常に」、そして、「即座に」特定できるものなのだろうか。

さきほどの手に持っているペンを離したら落下する例。
この例を理解する際、私たちは重力や引力の概念を事前に了解している。
そうした法則を事前に(概念的に)知っていることで、ペンを離したら落下するという個的な事例を理解できる。
ただ、この場合、概念や法則そのものを知覚(視覚化)することはできず、本当に落下するペンに対して、その法則が適用されているかどうかは、実証することができない。
だが、実証することができないにしても、概念的な法則が個別的な事例に適用しているのだと、「了解する」ということが重要になる。
言わば、正しいか正しくないか、ということより、信じられるか信じられないか、ということに重きがあるのではないだろうか。
(数学や物理が苦手な人は、こうした科学信仰なるものへの不信があるから苦手なんじゃないか…、という暴力的な私見。自然科学において法則は「ひとまず前提として」了解しなければならない。)

この「了解する」ことは、悲しみにおいても言えるだろう。
大事な物を失くしたから悲しい。近親が亡くなったから悲しい。雨なのに傘を忘れたから悲しい。
その原因にあたるものは、絶対的な法則の下で悲しみをもたらしているわけではない。
大事な物を失くしたから、(新しい物を買える可能性を感じて)喜ぶこともあるだろう。
その原因にあたるものと悲しいという結果は、正しいか正しくないか、が常に、即座に導きだされるものではなく、その原因と結果の関係を信じるか信じないか、自らがそのように了解するかどうかによって、決まるだろう。
そして、ここに新たな鍵を加えるとしたら、その了解によって、物語ることが可能になる。
(原因:了解→結果:物語ることが可能になる、というのも、また了解する必要性がある。つまり、ここで、この文章の読者が、この文章に対して反感を抱くかどうかの分岐点がここにある。)
原因と結果を自分なりに了解したことで、その原因と結果は共に完結する。
その一つの形を纏うことによって、説明が可能になる。
つまり、他者に対して、ある出来事についての原因と結果を提示できるようになる。
この原因と結果の提示を物語ることだとする。

しかし、この原因と結果を物語ることにも難点がある。
物語る主体においては、結果が先にあってから原因を探り、それを、原因→結果として提示することが可能だが、その物語りを聞く者にとっては、その原因→結果の物語りを了解できる(信じられる)とは限らない。
それも特に悲しみにおいては、そう言える。
ある特定の法則、それも、万人が知っている法則を用いて、原因と結果を提示するのであれば、例え、どんな特異な結果であろうと、原因が万人にとって了解可能なものであれば、その物語りは、万人にとっても理解しうる。
だが、悲しみは、原因にしても結果にしても、実に個的である。
他者は、その他者の文脈を完全に共有することができず、言わば、物語る主体の文脈が物を言う。

また、物語るのは了解後であり、そのことによって原因→結果を提示できるのだが、この物語りを他者が聞いた際、あたかも、原因があって(事前)、結果が生まれた(事後)であるように錯覚する。
そう、錯覚するのだ。
例えば、虫歯があるから歯がいたい。
これはいたって普通の説明だろう。
だが、私たちが普段、このことを了解するのは、歯がいたいという知覚(痛み)があってから、歯医者に行くなどして、もしくは経験的に、虫歯がある、という判断を下す。
歯がいたい→虫歯があることに気づく、のだが、虫歯がある→歯がいたい、という順番に置き換えることができる。

悲しみはどうだろうか。
少し感覚的になってしまうが、たいていの場合、悲しさは急にやってきたり、気づいたら悲しくなったりすることはないだろうか。
悲しみという結果が先にあり、その原因が何であるかを探す。
それも自らの過去(文脈)を振り返る作業であり、原因が特定できるような法則が用意されているわけではない。
そして、絶対的な原因ではなくとも、自分が了解できる原因を見つけた時、それを他者に物語ること(説明)ができる。
たとえ、悲しみの原因にあたるものが何となくわかっていても、了解することが必要になり(原因と結果の結びつけ)、それを物語ること(説明)によって、悲しみを克服できるのではないだろうか。


おまけ
「悲しい」という3文字に、悲しみはあるだろうか。
私の考えではあるとも言え、ないとも言える(後者に重きを置く)。
「悲しい」という言葉は、普段私たちの間で使われ、他者が「悲しい」と発すれば、慰めるなり、「どうしたの?」と聞いたりなんなりという行動をとることができる。
その発話に対して、何らかの行動をとることができる、という点においては、「悲しい」という言葉を何となく理解しているように思える。
だが、上述の考察を引き継ぐならば、その悲しみには、言わば、厚みがある。
その原因は、決まって一つであるわけではない。
その時その場でその人が抱く悲しみには、その時その場でその人が抱く原因がある。
他者の悲しみは、必ずしも私と同じように起こりうるべくして起こるわけではない。
他者の文脈は、多少なりとも共有はできる(趣味、好き嫌いなど)が、そこから抱く感想や感情は異なってくる。
そうした原因や結果が異なるからこそ、「悲しい」という3文字には、悲しみの全てがあらわしきれない、言わば厚みが生じるのではないだろうか。


*1 野矢茂樹『語りえぬものを語る』講談社、2011年
*2 ちなみに野矢は決定論に対して批判的な立場である



散文(批評随筆小説等) 「悲しみ」についての考察—決定論を参考に— Copyright 中川達矢 2013-05-21 22:27:16
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