水槽の魚は美味しそう
イナエ
アメリカ帰りの若い女教師はあきれたように言った
「水族館の水槽を見ていた若いお母さんがね
幼稚園児くらいの子に言ったの
あのマグロ美味しそうだねって
「ぼくだって水槽の鯛や海老を旨そうだと
思うことはあるよ 魚屋とか寿司屋の水槽だけど」
「水族館でだよ」
「水族館では 食欲は感じないな」
とか何とか
言っていたのは三〇年ほど昔のこと
今
巨大な水槽では鯖やマンタが泳ぎ蛸が踊る
ウツボが岩陰から好奇心旺盛は顔をぬっとだし
イワシの群れのトルネード
周りをまるまると太ったマグロが回遊する
若いお母さんが少女に聞く
「どれが好き?」
少女は指さす
ぼくはつぶやく
「確かに 美味しそうだ」
三〇年がたちまち飛んで 若い女教師に叱られる
「あれは 食べる物ではありません!」
この三〇年の間にぼくの中で何が起きていたのか
満ち足りた欲望に欲望を積み重ねたバブルの暮らし
高価なものが良いものだと信じた贅沢
それらは年経て崩壊したのか
二〇年も着古したブルゾンや
クリアランスの下着に身を包み
美味をほしがる食欲だけは残ったけれど
食卓に上るのは外国産の冷凍肉に冷凍魚
水槽を泳ぐ魚はどれも新鮮で
美味しそうで