あーもう、時間がない。
Ohatu
まとめると、といいながら飛躍しますが。
国家というものは、自由と平等(互助といってもいい)という軸に立って
どこに立つかというせめぎ合いをしているわけです。もう面倒くさいので、
言うと完全に民主党と共和党です、アメリカの。
でも、そのせめぎ合いを避ける方法がひとつだけあって。
それは、やっぱり共通の敵を作ると言うこと。これは歴史が証明してることで、
きれいごとを言っても仕方がない。共通の希望でもいい、論理的には。
同じように成り立つ。
だけど、共通の希望なんて、世界には存在しない。敵なら作れる。
そういうことを考えないといけない。
つまり、共通の敵がいる状態というのは何か、それは自由も平等も諦め
られる状態ということ。そういう状態を指標化したとき、今の日本は
どうなのか。自由も平等も諦めて、敵を倒すためならと、すり替えては
いないか。
敵というものを倒すと、個人に何か違いが生まれるか。多くの場合、変わらない。
他国を侵略して奴隷化する社会があっても、おまえがニートで貧民であることは
変わらないんです。変わらないけど、それでも、敵を倒すということを熱望する。
わずかに残る(とはいえ最低な立場にいる日本人でも世界標準で見たらたいした
量だが)な自由も平等も投げ出す。何も得られないのに。
今、日本が、日本人が、もっと言えば世界が、どこに居るのか、よく見ないと。
さて、それはいい。
こんなもんは常識で、いちいち書くことでもない。
もうひとつのほう。
つまり、
ところで、
今、この世界で、共通の希望を見出し掲げようとしている人がいるか。
それは、本当に不可能な挑戦か。不可能らしくみえる。
しかし、不可能だという結論で良いのか。
もし、共通の希望と言えるものがあるとすれば、何か。
想像してみたくなった。
僕の定義において、この時代、詩人とは何か、と考えれば、そういうこと。
共通の希望というものを発掘、発見、構築、または想像あるいは創造し、
可視化、可識化できる人間のことだ。
僕は、そういう気持ちで、詩を読んでみようと思う。
小咄も結構、大ちゅきもよかろう。あなたの屈折すら大いに語りたまえ。
しかし、最近、それは、もう詩と呼べないのでは無いかと思っている。
ブログや、あれや、これや、そういうなんでもな基準では、もうみんな詩人という時代だ。
この時代において、詩というものは、何か。
考えたのはそういうこと。
反論があれば、ぜひ。