彼と彼女の日常
石田とわ




「ただいま」


彼と彼女が帰ってきた。
そう今日は待ちに待った退院の日。
昨日わたしは家中を片づけ、彼女に頼まれた買い物をすべて済ませた。
それは一日がかりの作業だった。
            
彼女に渡されたメモには介護に必要と思われる細かなものたちが
明記されていた。
いつ何があってもいいように、慌てないように。
「口内体温計」それはやせ細った彼の身体では普通の体温計では
測れなくなってきていることを示すものや、ボタンひとつで彼女や私と
連絡がつく緊急連絡装置など。
            
悲しい買い物ばかりだ、嫌なことはさっさと済ませるに限る。
手早く介護の買い物を済ませるとその足で電機屋へ向かった。

メモの最後には大きく「テレビ」と書かれていた。



「おかえりなさい」
       
車いすの彼が小さく見えた。
彼女は器用に車いすを押し、模様替えしたリビングへと向かう。
            
「どう?変わったでしょ」
ソファは部屋の隅に移動し、彼のためのベッドとその真向かいには
42型のテレビが置かれている。
            
「早速DVD借りてこないとね」 

こうして3人の生活がまたはじまった。

彼女は次の日から仕事に戻った。
介護時間を申請し、今までとは違った2時から8時の一定した短い
勤務時間にしてもらったのだ。
そして昼間は数時間置きにヘルパーさんが様子を見にくる
ことになっている。
彼はヘルパーは要らないと言ったがこれは彼女に却下された。


それからの生活は彼と彼女の蜜月だった。


仕事から帰ると彼女はすぐに彼の点滴の支度をはじめる。
それは12時間かかるもので彼の唯一の栄養源だ。
鎖骨部分には点滴を受けるための装置が埋め込まれている。

病院で何度か練習をし、はじめはおっかなびっくりだった彼女も
今ではすっかり扱いになれたようだ。
            
「ねぇ、今夜はなに観る?」
点滴をセットし終わるとテレビの前に陣取る彼女。

彼と彼女の時間がはじまる。
            
これから朝までDVDを見るのだ。
毎晩3本、これが退院してからの彼と彼女の日課だった。

彼女は知っている、彼が自分の帰りをずっと待っていることを。
本当は仕事に行って欲しくないと思っていることを。

彼は知っている、彼女の身体が疲れていることを。
向けられる笑顔のうらに涙があることを。

そんなふたりが羨ましくもあり、かなしくもあった。            

彼女の睡眠は朝6時から点滴の終わる11時までだ。
あんなに寝坊だったのにこの時間にはぴたりと起きるようになった。



少しずつゆっくりと、そして確実に時間は過ぎた。


「どうも立てなくなったらしい」

退院してから半月たった彼女の休みの日の朝、彼はつぶやいた。
それまでは彼もなんとか立って歩くことができた。
トイレに行くことも、本を取ることも自力でできたのだ。

彼女はただ、うなずいた。

私はそんな彼を直視できなかった。
いつも一緒に買い物に行っていた。
毎晩、料理を作ってくれた。

そんな彼がもう立つことができない、そのことがただ悲しかった。

けれど立てなくなっても彼は変わらなかった。
悲嘆にくれることもなく、泣きごとひとつ言わなかった。
煙草を吸い、本を手にする姿は以前と同じ彼だった。
            

ある日彼女が一房の葡萄を買ってきた。

「アレキサンドリアよ。少し口にする?」
小皿に盛られた数粒の葡萄を彼女は宝石みたいと笑った。

食事ができない彼のための葡萄。
その夜、一粒の葡萄がその喉を通った。

彼女とわたしも彼の傍らで一緒に葡萄をつまむ。
葡萄がいかにきれいに並べられていたかを語って聞かせる
その顔はとてもうれしげだった。

            
それからしばらくして彼女は往診をしてくれる先生を彼に紹介した。
その医者は彼女とわたしにこう言った。

「何かあったらすぐ呼ぶように。家で看とるのなら救急車は呼ばない事。
もし手遅れだった場合呼んでしまうと検死が必要になります。
大丈夫ですか?」


その時が迫っているのがわかった。
彼がいなくなる、その日がもうすぐ来るのだ。

そしてそれはあっけないほど早く来た。
先生が往診に来てから三日後。

その日は朝から具合が悪そうだった。
わたしは仕事が休めない彼女のかわりに、学校を休むことにした。

仕事へ行く彼女を見送ると、彼は少し眠るよと行って目を閉じた。
そのかたわらで本を読み、彼女を真似て寝顔を眺めてみる。

「もうすぐ帰ってくるかな」
時計を見るとまだ4時にもならない。
彼女が仕事に行ってから3時間しかたたない。
彼がこんなことを言うのは初めてだった。
        
「母さんに帰ってきてもらおうか?」
「そうしてもらってくれ」

わたしは震える手で電話をかけた。
        
「ただいま。ごめんね遅くなって」
彼女はタクシーを飛ばし、帰ると枕元でそう囁いた。
けれど彼は過呼吸をおこしもう返事をすることもできなかった。
            

やがて先生が来て彼に一本の注射を打ちその数時間後、息を引き取った。

彼女の帰りを待つかのような最期だった。

彼女は彼を愛おしげに撫で、「よくがんばったね」と微笑んだ。
わたしは彼女のそばで号泣し、彼女は最後まで泣かなかった。


こうして彼と彼女の日常は幕を閉じた。

彼も彼女も心まで病魔に侵されることがなかった。
現実を受け入れ、死を怖がることも神聖化することもなかった。

「いつかは誰でも死ぬんだよ」
病状を不安がるといつも彼はわたしにそう言って、笑いかけた。

わたしは彼と彼女の子供に生まれてきた事を誇りに思う。
彼はだれよりも彼女を愛した。
彼女はだれよりも彼を愛した。

その二人に愛され、慈しまれたわたしは誰よりも幸せだ。


彼はもういないが彼と彼女の日常は今もわたしの中で生きている。


















散文(批評随筆小説等) 彼と彼女の日常 Copyright 石田とわ 2013-04-18 01:08:55
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