彼と彼女の中庭
石田とわ




それは引っ越しが終わり、ようやく新しい家に慣れたころ
突然やってきた。
        
我が家でなくても、彼じゃなくてもよかったはずだ。
何度そう思ったことだろう。
この時ほど神様を恨んだことはない。
いや、きっと神様なんていないのだ。


この部屋の窓から見える景色は一面見渡す限りの緑に覆われている。
それはかなしくなるほどに眩しい。
         
「外へ散歩に行かないか」
彼の声に慌てて窓から離れ、起き上がろうとする彼の背中を支える。
「大丈夫だ」
そっと手を離し足元のスリッパを揃える。
手のひらに当たった背骨が悲しかった。
         
彼はもともと食が細いほうだった。
そんな彼の異変に最初に気がついたのはもちろん彼女だ。
         
いつもの通り彼が作った食事を食卓に並べていると、帰った彼女が
その食事を見て彼を問いただしたのが始まりだった。
        
「具合が悪いの?」
        
彼女は作られた食事を見つめる。
塩鮭と野菜炒め。
彼と彼女は晩酌をするのでご飯を食べない。
        
けれど晩酌のつまみにしてもその量はあまりにも少なかった。
彼女の言葉ではじめて気がついた。
彼は食べざかりのわたしのためにいつもなにか一品多めに作ってくれる。
ご飯も食べるわたしはその量の少なさに気がつかなかったのだ。

「ここ最近食欲がなく食べられないんだ」  
「明日病院に行きましょう。一緒に行くわ」

彼女が仕事を休んで病院へ付きそうことなど今までなかった。
わたしはそのことだけで不安になり、特別に作っってくれた甘いはずの
卵焼きの味もその夜は味気なく感じた。

そして3人で囲む食事はこの日が最後となった。

次の日どうしてもと言ってわたしも学校を休み一緒に病院へ行った。
長い時間待たされたはずなのだがその記憶がない。

様々な検査のあと医者はこう言った。
「癌マーカーが高いですね。すぐに入院されてもいいですし、お仕事を
 片づけてからでも構いません」

それはまるで早く入院しても、ゆっくりでも同じですよと
言っているように聞こえ、思わず医者をにらみつけた。
        
彼女は仕事を心配する彼を説き伏せ、そのまま入院手続きを取った。
わたしは不安で今にも泣き出しそうだった。
        
「あなたは彼の娘でしょ。彼はみっともないことが嫌いよ」
彼女は小声でそう囁くと、にっこりと笑った。

「さぁ、観念して。ちょっと早い夏休みだと思えばいいじゃない」
彼女はおどけてそう言うと、ホテルの部屋の話をするように病室は
できれば窓際がいいわねと看護師さんに部屋の確認をする。

その日から彼の2カ月の病院生活が始まった。

わたしは2日とあけずに学校の帰りに彼に会いに行く。
彼女は有給をとり、そのほとんどを病室で過ごすようになった。


わたしと彼が部屋を出ようとすると洗濯物を抱えた彼女が帰ってきた。
「散歩ならわたしも行く」
彼女は洗濯物をベッドに放り出す。      
   
入院してから彼は点滴だけで生きているといっても過言でない。
もとから細かった身体はこの一カ月でさらにやせ細った。
         
食事らしい食事のでない病院での一日はあまりに長かった。
彼女はそれを知っていたから休みをとったのだろうか。

入院してから散歩が彼の一番の楽しみになった。
理由は簡単、煙草が吸えるからだ。

中庭には今日は誰もいない。
青々とした芝生が眩しく、裸足になると気持ちがいい。

彼はベンチに座りそんなわたしを見ながらゆっくりと煙草を吸う。 
彼女は隣りで読みかけの本を取りだす。

ここが病院じゃなければいいのに、いつもそう思う。
入院から二カ月、彼は今月末に退院することになった。

様々な検査が続き入院から三週間して手術が行われたが
彼を蝕む癌はそのまま彼の身体に残されたままとなった。
         
わずかな固形物も摂れなくなり、彼は嘔吐を繰り返した。

「もって三カ月でしょう。告知はしますか」
まだ年若い主治医は彼女にそう言ったそうだ。  

彼女は冷静だった。
告知を願いでて今後の治療について話を聞き、その手立てがないと
知ると退院できるかを確認した。

彼には薬もなく、ただ栄養剤の点滴を行うしかなかった。
在宅でも簡単に点滴ができるとわかると彼女は早い退院を希望した。
         
彼女からその話を聞いた時、わたしは泣かずにはいられなかった。
       
「可哀想だけど、あなたも覚悟してね。家では食事は作れないから
あなたはおばあちゃんの所でご飯を食べてから帰ってきなさい」
彼女は優しく泣きじゃくるわたしの頭をなでた。  

彼女はけっして泣かなかった。

「彼はわたしとあなたで看とるのよ」
まるでそれが楽しい事かのように彼女は笑った。

この中庭にいるとその日の事が嘘のように思える。
まるでここはどこかの避暑地のように緑に囲まれ、散歩道には
いろいろな花が咲き乱れている。

         
「・・・それで、この場面がカッコイイの!!」
彼女は本を読むのをやめ、いかに主人公がカッコイイかを
夢中になって話している。

彼は告知を受けてからも変わらなかった。
まるで知っていた事かのように医者の話を聞き終わると本に目を戻した。

今も煙草を燻らせながら楽しそうに彼女の話に耳を傾けている。

彼も彼女も笑っている。
  
今も彼を想いだす時、あの中庭に彼がいるような気がする。
        

こうして彼と彼女の病院生活は終わった。
         
         



                                                                                                                                   
         
         

  



散文(批評随筆小説等) 彼と彼女の中庭 Copyright 石田とわ 2013-04-17 00:34:17
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