彼と彼女とわたしの海
石田とわ




「釣りに行かないか」

彼がそう言いだしたのはめずらしく彼女が午前中に起きだしソファで寝転びながら、
いそいそとインテリアと家具の本を広げた時だった。
彼女はマンション購入が決まってからこの本を毎日飽きずに眺めている。

彼女は黙って彼を見つめる。
            
「行かないか?」

彼がこんなことを急に言いだすのはめずらしい。
いつもなら前日に予定を立てるのに。

「行くわ」
彼女が即座にそう答えたことがなんだか意外だった。 
本をソファに投げ出し「着替えてくる」とリビングをでる彼女に
「わたしも行っていい?」と声をかける。

「もちろんよ」

Tシャツにセーターにと何枚も着こみながらはじめての釣りに
どんな魚が釣れるのだろうと期待を抱く。


その海は岩場でも砂浜でもない、遠くに工業地帯がみえる防波堤だった。
彼は釣り道具を、彼女は飲み物のはいったボックスを手に堤防沿いを歩く。
わたしは黙ってふたりのあとを空バケツを持ってついて行く。
             
なぜだか今日の彼と彼女がいつもと違って見える。
ふたりの後ろ姿を見ながらふとそんなことを思った。

風はまだ冷たいが真冬の寒さとはどこかがちがう。
あと一カ月もすれば桜が咲く、春はもうすぐそこまできているのだ。
             
しばらく歩くとぽつりぽつりと釣り人がいる。
彼と彼女が会釈をしながらその後ろを通りすぎる。
わたしもお辞儀をしながらそっと釣り人たちのバケツをのぞき込む。

今日は魚がいないようだ。

少し離れたところに私たちは腰をおろし、釣りの支度をはじめる。
と言ってもわたしはただ見ているだけで、彼女にしてもほとんど彼まかせだ。

彼は丁寧に餌の付け方から教えてくれるが、どうにも手がでない。
頭も尻尾もわからないミミズにしか見えない餌たちが苦手だ。            彼女は渡された釣竿にてきぱきと餌をつけていく。 
まごまごしているわたしを見かねて餌をつけてくれた。

釣り糸を垂れるといっぱしの釣り人気分だ。
海は青くはなく、どんよりとした雲と同じ鈍色をしている。

彼が釣り糸を垂らすと彼女はボックスから日本酒を取り出し彼に手渡す。
わたしにはホットコーヒーだ。
日本酒を手に彼の隣りに座りこむ彼女。
釣竿は放り投げ出されている。

彼女は一言も口をきかない。
             
時たま餌を付け替え、あとは黙って海を見ている。
そして彼もまた黙っている。
             
竿の先がピクリと動き慌てて引き上げるがそこに魚の姿はなく
あるのは海藻ばかり。
何度かそれを繰り返し結局3時間あまりをそこで過ごし、
一匹も釣れずに私たちの釣りは終わった。

彼は釣りがしたかったのだろうか、
それとも海が見たかったのだろうかと考える。


「体が冷えちゃった。帰ったらおでんにしない?」
「いいね。今夜はもう少し日本酒を飲みたいな」

彼が彼女を抱きよせる。

わたしはびっくりして彼と彼女を交互に見比べる。
そんなことをする彼を見たことがない。

彼女は微笑んで彼を見上げ、そして私に笑顔を向ける。
なんだか彼女を抱きよせた彼が寂しげに見えた。

彼女が夕食に作ったおでんは、丁寧に昆布で取った出汁が
大根によく沁みて、寒かった体を温めた。

ゆっくり日本酒を飲み、時々はんぺんをつまむ彼。
餅巾着をほおばるわたし。
彼女は母親らしく、そして妻らしく目を配りながら
いつものように無邪気に笑う。


彼は一体どんな気持ちで釣りに行こうと言ったのだろう。
杯を傾け、本に目を通す彼に寂しげな様子は見られない。
無口で穏やかないつもの彼だった。
             
            
海の色を思い浮かべながら、おでんの夜はゆっくりと静かに過ぎた。

             
             




散文(批評随筆小説等) 彼と彼女とわたしの海 Copyright 石田とわ 2013-04-16 23:43:28
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