ピエタ
ドクダミ五十号

イタリア語で悲しみを 意味しています

自分の子の死に 直面して

悲しみを心に抱かない 母はおりませんが

マリアは悲しむ事さえ その胸に抱けないのです

何故かならば 彼女はそれを許されてはいなかったから

神の子を 受胎し

しかもその子 イエスが 人の世の 人の 神に対する

罪を 己の それも人間として 罰として 死んでしまうを

知っていたから

ピエタと題される作品の多くが 嘆き悲しみの母と

描写されないのは これが理由なのです

悲母マリアとされるが その悲しみを

人間の悲しとは別の 泣くに泣けない 苦しみとするからです


神と人間の間に 交わされた契約の更新

イエス自身にも大きな苦悩があったでしょう

ユダヤの肉による利 つまり 現世での利益を破棄し

精神 または 心の 利益に 更新しようとする試みは 

当時のユダヤ教の大多数の信仰とは あまりに違い

ユダヤ教の一宗派としての キリスト教は

多くの矛盾と 迫害とを産んで いましたから

どこかクムラン教団的な 二元論 肉体と精神の狭間

ヘブライ人達には無かった 人間を二面性のあるものとする

救いは 遂に死によって 証明されるべきであった


マリアがそれを知っていたとしても 何の不思議も無いのです

ならばマリアがイエスの肉体としての死をどうして嘆き悲しめましょう

『さらばカイゼルのものはカイゼルに、神のものは神に納めよ』

とヘロデ党らに伝えた事で解る様に政教分離や

人の世の多面性を重視していたのは明らかでしょう


ピエタが多く作品として芸術にされた理由は

人間と神と呼ばれるものの関わりと 人間の反応にあるでしょう


『神は死んだ』とは言い古された言い回しですが

この悲母の描写と深さには 大いに畏怖の念をおぼえるのです

神とは人間の精神とに肉体の間から にじみ出る悲哀からの

脱出 つまり 許されや 救いを 望む 心の底にある


そういった意味で 多くの残虐と暴力に満ちた ユダヤ教から発した

キリスト教が 世界的宗教として 今日あるのでしょう


中でもこの一場面は多くの人間の心に響くのでしょう


私は学者ではありませんから 聖書からの引用が少ない事は

許して頂きたい 勿論 細かく見出しや索引を付けた聖書はありますが

手元に


自由詩 ピエタ Copyright ドクダミ五十号 2013-04-16 12:35:05
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