文を理解するということ
青色銀河団

ここのところずっと、ある詩を批評しようとして、色々考えていました。
そして考えが横にそれたというか根本的なとこまでいったというかつまり、文章を理解するとはどういうことかに関心が移ってきました。
まだ全然結論に至っていないのですが、これはよ〜く考えてもなかなか分かりません。
人は、すくなくとも僕は、文章を読む時は、全くの無意識で行なっております。
そしてこれはちょっと意識して観察するとすぐ分かるのですが、文字があれば絶対心の中で声を出して読んでしまいます。黙読なんですが文字があれば必ず内なる声が出てしまいます。読めない漢字は別ですよ。でも読んでしまうと、理解してしまうのです。
この読んでしまうときに何が起こっているか、もっと注意深く自分の中を観察しようとすると、すごく気持ち悪くなります。無意識を意識化しようとすると精神的におかしくなるようなやばい感じがして、なかなかはっきりと見定める事ができません。
言語学で、単語にはシニフィエ(意味)・シニフィアン(表象)があると説明されるように、文自体にもシニフィエ・シニフィアンがあると思うのですが、そして、文のシニフィアン(表象)は構造をもっているので、文のシニフィエ(意味)も構造をもっているだろうと、そして文の集合である文章もそれぞれ構造化されたシニフィエ(意味)・シニフィアン(表象)があるのだろうと予測するのですが、最初の文のところで、躓いています。
文の構造って何か。どうして文は意味を伝えられるのか。文法はわかりますよ、主語がどれで述語がどれ、修飾関係はどうなっているか、代名詞は何を指しているか等。でもそれは事後的なことだと思うんです。文を読むと同時に意味を理解してしまう。後から分析しようとすればさっき言った文法的なことは分かるんですが、読んでしまうときに一体何が起こっているか。
すごい馬鹿なことを考えてると笑ってください。でも、自分の中で起こっていることなのに全然わからなくてすごく不思議です。


散文(批評随筆小説等) 文を理解するということ Copyright 青色銀河団 2004-12-28 00:22:08
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