呪いの朝
ホロウ・シカエルボク



薄汚れた路地を歩いていた、時間は判らず、空は明方のような薄暗さをもう数時間は保っているように思えた、それはフィルムのように誰かの手が届く中空に張り付けられてるのかもしれない、でもいったい何に?そんなこと知る由もなかった、路地は、街に漂うあらゆる夜がすえたような臭いが染み付いてた、俺は顔をしかめながらなだらかな上り坂を歩いた、幾つもの緩いカーブが左右にうねり、そのたびに少しだけ方角の見当が失われた、いつからそうして歩いているのだろう、足の裏には皮膚の内側に異物が紛れ込んだかのような痛みがあり、膝は疲弊していて、なにかの拍子にすっぽりと関節が抜けてしまうのではないかと思うほどに心許なかった、身体にはじっとりと汗を掻いていた、亡霊のようにへばりつく汗だった、歩行の振動に合わせて、短く荒い息が口から漏れた、痩せた黒猫がお決まりの不幸の示唆のように手短に前方を横切って去っていった、どこかで犬の吠える声がした、近くのようだったけれど、方々の建物の壁でその声は跳ね返って、どのあたりで鳴いているのかまったく見当はつけられなかった、二階以上のいくつかの窓に洗濯物が干したままになっていて、そのどれもがトンネルを通過してきたように黒く煤けていた、あれはいつからあそこにあるのだろう、と俺は思った、あれを干した人間たちはもうここには居ないのだろうか、部屋の中で死んでいるのか、それともどこかへ去ってしまったのか?捨て子のような洗濯物を見上げていると、自分の身体までがそこにぶら下がってしまうような気になって目線を落とした、路の先は相変わらずの景色が続いていた、あとどれだけ歩けばこの路地は終わるのか、そしてどこに辿りつくのか、全く判らなかった、そもそも、なぜそんなところを歩いているのかさえも、それでも俺はまた気を取り直して歩を進めるのだった、やはり空に明ける気配はなかった、そもそもがこういう天候なのかもしれない、ひしめきあうように伸びる建物に阻まれて、太陽が見えないだけなのかもしれない、そんなにこだわることではないのかもしれなかった、だけど太陽がないというそれだけのことが、様々な懸念を生むことになるのだ、俺はへとへとに疲れていたが、同時にいらついてもいた、なぜこんなところを延々と歩かなければならないのだ、そこらへんの窓を叩き割ってしまいたいくらいの気持ちがくすぶっていた、急かされるような感覚があった、早くしろ、早く歩け、早く行け、誰かが背後から俺の耳元でずっとそう囁いているかのような、そんな感覚、そしてそれには、無視してはいけない絶対的な何かが含まれていた、俺はそいつの意志に左右されていた、俺自身、そこを歩いていきたいのかどうかなんて判らなかった、名前すら知らない路地をなぜ歩いているのか、誰かが通りかかったのなら冗談交じりに聞いてみたい気分だった、誰か?誰か、誰か居るのだろうか、この街角には、果たして誰かが存在しているのか?俺はもう一度上を見上げた、相変わらず遠く薄暗い空と煤けた洗濯物があるだけだった、ある窓に誰かの影を見たような気がしたが、気のせいと言えば気のせいで済むくらいの感覚だった、そんなことにこだわってはならない、なんだか判らないが、俺はこの先まで路地を進まなければいけないようだ、俺は歩き始めた、時々歩き方を忘れたみたいに膝ががくんと崩れた、ちくしょうめ、と俺は毒づいた、天気、臭い、洗濯物、そんなもののすべてが俺をいらつかせるために存在しているような気がした、俺はムカついた、相当にムカついた、路地の隅に積み上げられていたごみの中から鉄パイプを掴みだし、そこら中の窓を叩き割りながら歩いた、誰も出てきたりしなかったし、怒声が聞こえてくることもなかった、なのになぜだろう、幾つもの窓を割ったあとで、俺は背後から漂ってくる得体の知れない気配に気付いた、考えなしに振り返ると、有害物質を燃やした時の煙みたいな黒いものが、俺を捕まえようと路地の奥から迫って来ていた、俺はパイプを捨てて走った、だけどそんなに長くは走れなかった、俺は初めからクタクタに疲れ切っていたのだ、俺は路に倒れ込んだ、路面からは耐えがたい臭いがした、いくつもの死骸がそのうえで腐っていったみたいな臭いだった、黒い煙は俺の身体を包みこむと、大きな手のひらで握り潰そうとするみたいな圧力をかけてきた、俺の身体はその力にまるで抵抗することが出来なかった、まず脊髄が折れる音がした、次に肋骨が砕け、最後に骨盤が割れた、内臓が破裂し、口から血が噴き上がった、おそらく他のところからも血が流れ出しているのだろう、俺の肉体はカラメルに塗れたみたいにぬるぬるとし始めた、そうして俺は、俺の肉体は拳くらいの大きさの歪な玉になった、飛び起きると全身にびっしょりと汗を掻いていた、嫌な夢だ、と俺は思った、汗を拭う時に両肘に痛みを感じた、見てみると固い地面で擦りむいたような傷があった、立ちあがろうとすると同じ痛みを膝にも感じだ、確かめると同じような傷があった、唇を舐めるとどろりとした感触があった、指で舌に付いたものを拭ってみるとそれは血だった、俺は振り向いた、あの黒い煙がぼんやりとそこに漂っていて、ぶうぅ、とモーターのような音を立てると、風に吹かれたように消えた、俺はしばらくの間呆然として、両手で顔をゆっくりと拭った、この一日をどんなふうに始めればいいのか、まったく見当もつかなかった。



自由詩 呪いの朝 Copyright ホロウ・シカエルボク 2013-04-04 17:17:22
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