彼岸の日に
殿岡秀秋

家族でテレビを観ているときに
死んだらどうなるかという考えに
急に抱きつかれて
子どものぼくは立ちあがった

狭い家の中を
歩きまわる檻の中の熊
家族は画面に気をとられて
徘徊に気づかない

からだが燃やされたら
骸骨のほかに何も残らないのか
それとも形を変えて
残るものがあるのか

もしかして宇宙には
無数の生物が生きて死んで粒になって
生き返るのを待ちながら
闇に隠れて浮いている
場所があるのではないか

いくら考えてもわからなかった

あの日テレビを観ていた両親は
すでに亡くなり
孫までできたぼくは
父の好きな日本酒を手に墓参りに行く

新しい切り花と
線香の香りの間をぬって
コンクリートの納骨堂の片隅で合掌する
父母はここにいて
ぼくを懐かしんでいるのだろうか。

骨壺はあっても
肉体はない
だから意識もないはずだ
ぼくを見てはいないだろう

霊魂が
粒子のように在るのだとしたら
どのように
ぼくを感じているのか

そこにいることは
確かめられない
そこには何もないと
決めることもできない

花瓶の曼珠沙華が揺れる
風か
納骨堂の扉が閉まる





自由詩 彼岸の日に Copyright 殿岡秀秋 2013-04-01 05:26:09
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