明日のこころだ
yo-yo

今頃になって、風邪をひいてしまった。
久しぶりの風邪なので、体が風邪に慣れていない。
鼻水と咳が止まらない。新聞を読もうとすると涙が止まらない。体のどこから、そんなに水が湧き出てくるのかと不思議なくらいだ。
それでも、横になっていると鼻水も咳もおさまる。まるでペットボトルにでもなったみたいだ。いや、すこし違うかな。頭に靄がかかっているので、まともな思考ができていない。

楽な方がいいので、一日じゅう横になっている。
枕元にタブレットを置いて、YouTubeの『小沢昭一の小沢昭一的こころ』を聴く。
小沢昭一は去年の12月に死んでしまったので、もうラジオで聴くことはできない。YouTubeなら今でもじっくり聴くことができる。多芸多才な話芸の名人の、歯切れのよい声を聴いているだけで、風邪ひきの苦しさなど忘れてしまえる。心地よい水が、こんどは耳から入ってくるのだ。

古い落語家の、古今亭志ん生のことを語っている。
その語り口には、余人に真似のできない妙味があったという。まるで思い出しながらやってるような話し方で、話はとびとびで、へぇとかはぁとか言葉にならない変な言葉が入る。いま初めて考えて、いま初めて口に出したようにやる。何回おなじ話を聞いても、言葉が出来たてなんですね、そこがすばらしいという。
出来たての言葉なんて、ほんとにうらやましい。

へぇとかはぁとか、そんな息遣いのようなものの中に、名人落語家の言葉は潜んでいるのだった。
それを詩や小説の言葉にしてしまったら、おそらく何も伝えることはできないだろう。たとえ伝えることができるとしても、何百何千という言葉を補足しなければならないだろう。
志ん生の語りは、話術というものの極意が術ではなくて、人間・人柄であることを、はっきり証明したものだという。
高座でただ座っているだけで客を笑わせることができる、といわれた人だ。やはり、人間がじかに伝えるものにはかなわない。

落語はシェイクスピアに匹敵するのではないか、と小沢昭一はいう。
ことば、ことば、ことば……
落語は言葉を伝える話芸であるけれど、ときには言葉をこえたものを、言葉ではないもので伝えることができるのだ。
あらためて、志ん生の落語を聴いてみる。
ときどき何をしゃべっているのかわからない部分がある。ため息のようなものが耳に入ってくる。その息が、風邪で朦朧とした頭にくすぐったい。そしてぼくは、いつしか現(うつつ)と夢のはざまを漂っている。
ぼちぼち桜も満開だろう。花も嵐もあるだろう。きょうは風邪、あしたは明日。目覚めれば誰かが、明日のこころだぁと叫んでいる。








自由詩 明日のこころだ Copyright yo-yo 2013-03-31 06:20:26
notebook Home 戻る