淵の眼
イナエ

視覚には捕らえなかったけれど
感じてしまった
小さな淵に潜んだ眼

その頃
山奥に完成したダム湖では
人を呼び 春を楽しませようと
貸しボートを浮かべていた

まだ観光の人もいない早朝 
ダム湖の上流へボートをこいでいった
湖面を割って進む舳先から
波が八の字を描いて岸に伸び
湖面に写る岸上の桜花を乱した

やがて
両側の山が湖面に迫ってくると
湖水の色と山の色が融合し
湖から新芽を出した樹が生えていた

細い支流の先に滝があるらしく
水の堕ちろ音がかすかに聞こえる
音に誘われて支流に入り込む
風が出たらしく樹林がざわつく

川底の巨岩が 
水に潜む生き物の
背のように透けて見えると
渓谷の奥に入りすぎた後悔が
体を振るわせたが
私は櫂をこぐ手を一層早めた

櫂が川底こするようになったとき
ボートの左右に小さな淵が幾つも現れ
樹木の音に混じって生きものの
気配が襲ってきた

頭の中で「引け引け」と
声が渦巻いたが
若かった私は声に反抗して
淵の間を縫って進んだ

滝が見えたとき
流れ落ちる水を透かして
こちらを眺めている眼の
気配が全身を貫いた





自由詩 淵の眼 Copyright イナエ 2013-03-21 21:38:16
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