エイトビット摂氏三十六度
魚屋スイソ

 カモメが鳴いている。ゲームボーイが発するエイトビットの効果音に似ている。ぼくらのあらゆる体液を染み込ませたエロ本だらけのこの廃小屋が、蒸し暑い潮風を吸ってさらに膨張している。ぼくはかげろうの中にいる。フォーマットされていながらも、正しいデータとして認識されない曖昧な存在として、毎日を放出と吸収の繰り返しで生きている。バイナリを書き換えたい。ちぐはぐな密度を詰め込んだ摂氏三十六度の肉体を置き去りにして、どこか遠くで凍えたい。皮膚の表面が硬化している。虫か植物の粘膜のようにまとわりつく濁った汗が廃小屋の埃を付着させ、体温の逃げ道を塞いでいる。きみは眠っている。白いワンピースの裾からのぞく太腿に、板張りになっている壁の節目から差し込んだ陽の光が食い込んでいる。きみはこの街に住んでいながら、この街とは無縁の、薄氷か新雪のように冷たく滑る肌をしている。ゲームボーイを握るぼくの手は、熱を帯びた鱗にまみれてしまっている。魚類や爬虫類は、外気の温度によって体温を変化させることができるらしい。画面に敵が現れる。ばくは何の動物なのだろう。どこに帰属しているのだろう。親指で丸いボタンを押す。コマンドを入力して、画面の敵にダメージを与える。コマンドを入力して、敵にダメージを与える。コマンドを入力して、ダメージを与える。コマンド、ダメージ、コマンド、コマンド。喉が渇いている。カモメの鳴き声みたいな音をさせて敵が死んでいく。エロ本に裸を載せている女たちも、いつかは死ぬのだろうか。だれかに丸いボタンを押されて、コマンドを入力されて、ダメージを与えられて、カモメの鳴き声みたいな音をさせて、死ぬのだろうか。インクでできた女たちと、ドットで描かれた敵たちと、海辺の街で育ったきみと、熱に閉じ込められたぼくとでは、何が違っているのだろう。画面が汗で滲んでいる。きみは眠っている。このまま敵を倒し続けて、塔を登っていけば、エイトビットのぼくはしあわせになれるだろう。摂氏三十六度のぼくは、親指で丸いボタンを押す。
 きみは、ぼくの名前を叫んで目を覚ます。色の濃い夕日が廃小屋の中で濁りを増している。オレンジジュースが飲みたい。ぼくの隣に駆け寄り、膝を抱えて座り込んだきみが、か細い声で夢の話をしはじめる。ゲームボーイの画面にはエンディングのロールが流れている。ぼくと首を絞め合っている最中、エスパーに目覚めたきみはからだ中からギザギザのエフェクトを飛ばしてこの街を滅ぼす。静止した画面に、イタリックの書体でエンドという文字が表示される。きみはだれもいない海に浸かって自分のからだを融かすが、意識が消えないまま海そのものになってしまう。ゲームボーイの電源を切る。冷たい水を湛える宇宙として、音のない慟哭をあげ、きみはぼくを産む。エロ本の山の上にゲームボーイを置いて、泣いているきみに顔を向ける。オレンジ色のモザイクがぼくの視線を遮る。エイトビットのぼくはしあわせになった。摂氏三十六度のぼくは鱗だらけの腕をきみの首へ伸ばし、親指に力を入れる。きみは俯いたまま、ふるえる手でぼくのからだをなぞる。カモメが鳴いている。


自由詩 エイトビット摂氏三十六度 Copyright 魚屋スイソ 2013-03-16 03:51:56
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