川柳が好きだから俳句を読んでいる(2、八木三日女のこと)
黒川排除 (oldsoup)

 気に入った作家を探すというのは俳句では難しくない。小説や詩とは違う。異様に簡単だ。インターネットには俳句のデータベースみたいなものが、簡単に検索しただけでも二三ある。二三で結構だと思う、本腰を入れて検索すればもうちょっと見つかることは間違いないが、別にそんなことに本腰を入れる必要はないだろう。肩の力を入れすぎると嫌なジジババになってしまうよ、例えば季語のことを口うるさく語る妖怪なんかになってしまう。データベースが見つかったら、その中でアンソロジー的にばら撒かれているものを、作者がバラバラになっているものを、おのれの直感だけを信じてガンガン掘っていけばいい。そこで拾い集めたものを何個か横においておいて、もしその作家名にかぶりがあれば、それが気に入った作家、俳人だ。

 芽に折れるジャズ地下に無頭児双頭児

 だいたい無意識に選んでいるはずの作家名にかぶりが出るということはその作家が特徴的な作品を残しているということにほかならない。その特徴を、おれは暴力に見ている。別に暴力に見ろというわけでもない、花鳥風月も美しいし、そういったものにまどろんでしまう気持ちもわかるし気持ちを持ってもいるけども、おれは暴力が好きだ。暴力性と言ってもいいけど暴力だ。ガツンと来てほしい。簡単でいいと思う、頭蓋骨がへこむほどガツンとした衝撃が欲しい。俳句の中で殺人が。あるいは血が。あるいは性欲が。あるいは奇形児が、あるいは絶望が、あるいは致命的な不足が。この場合は、まあ八木三日女の人となりなど知ったことではないので勘で書くけど、長崎行と書いてあるので奇形児のことだろう、原爆の奇形児。奇形児を比喩的に書くのでなく、奇形児と書く。悲しみを見たまま悲しみとしてぶつけているわけだ。ガツンと来るじゃないか。そしてジャズと奇形児が地下というキーワードで結びつき、各々がまだ一段と深い暗闇へ、裸電球で照らされるだけの暗がりへ進み、あるいは同じ場所にいる。こう考えるとものすごく立体感が出てくる。

 八木三日女のことを考えるときこういう暗い立体感、容赦のないグロさは外せない。代表作であり、いずれも句集やセクションの題に採ってることから本人も気に入っているであろう作品、「満開の森の陰部の鰓呼吸」「紅き茸礼賛しては蹴る女」「赤い地図なお鮮血の絹を裂く」なんかはまさに暴力、血と闇、色で言えば赤と黒、であり、森の陰部・○○の礼賛・地図などが広がりを添えている。この後にも書くが作風は変化するものだしひとつこれだと縛る紐を用意することはできないが、少なくとも初期の作品にはこういった「広がりの中のポツンとした暴力」が点在している。

 星一つづつ凍り乳児がぽつりと「パパ」
 きんさんぎんさんより年とった亀がもえている
 散水車去り「玄米パンのほやほやぁ」

 そしてその広がりを残しつつ、暴力が幼児性を、すなわち赤ん坊がいうことを聞かないでギャーギャー喚くうっとうしさに見られるような暴力性から逆引きしたような幼児性を描き始める。初期の作品にもこういった子供っぽさはあり、それは血や暴力と隣り合っていたため異様であった。ところが、上記三つのうち後半ふたつはまあまあ最近のものだが、血と暴力が退色し、代わりに幼児性が老人性のボケのようにすっとぼけた風味に現れるのだ。明らかに血と暴力を離れ、しかし作者の死が近付き、暗喩的に死を描き始め、実は軽くすっとぼけているような作風にジャンプした八木三日女は、たいていは晩年つまらなくなる俳人と違って独特の進化を遂げたクールなババアと言えるだろう。


散文(批評随筆小説等) 川柳が好きだから俳句を読んでいる(2、八木三日女のこと) Copyright 黒川排除 (oldsoup) 2013-03-08 18:02:22
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