異邦人日記から
動坂昇

某国公共放送で映画 Merry Christmas, Mr. Lawrence を観た。いまこの時期に見ることができてよかった。日本でも放映すればいいのに。いまこそもう一度観られるべき作品だと思う。

悪は英雄的ではなく、きわめて凡庸である。そのことは本作のハラ軍曹の姿に集約される。彼は俘虜収容所内でいわば牧羊犬のような役割を自任しているのだが、その行いは実際にはほぼ狂犬のものだ。軍規に違反した朝鮮人の部下に切腹を強いる。戦死したことにして彼の家族に恩給を出すためなどと言って、上官への報告を意図的に怠る。俘虜に日本的な恥の概念を説いては、どうして自死しないのかと詰め寄る。暴行する。一方で、酒に酔って上官の椅子に座り、正当な権限もないのに勝手に、クリスマスプレゼントなどと言って懲罰房からジャックとローレンスを出してやる。さて戦争が終わって自分自身が戦犯として捕らえられ裁かれる立場に立つと、かつてはまったく覚えようとしなかった英語を話せるようになるだけの努力をして、訪ねてきたローレンスに向かって、自分は兵士として上官の命令通りに行動しただけであってどうして罰せられるのかわからないという。

悪は英雄的ではなく、きわめて凡庸である。この言葉の意味をハラは真に体現している。おそらくハラはどこにでもいるありふれた人物である。いまでもこういう中間管理職の男はいる。問題はこのような人物の行動に自己の思想も主体性もないことである。彼は自らの為した行いの重さを自覚できない。彼は責任ということを知らない。彼はローレンスに向かって言う、Merry Christmas, Mr. Lawrence と。それは、かつて「クリスマスプレゼント」などと言って相手を懲罰房から出してやったことを思い出したうえで発せられた挨拶であり、だからこそ今度はおどけながらも精一杯に自分への憐れみを求める言葉なのだ。ここに、不条理に殺されかけた他の俘虜を救って高潔に死んでいくジャックとはまったく異なる人間がいる。そもそも日本的な恥と高潔な死を説いていたのはハラ自身だったのに。おそらく彼だけではなく多くの人々によって説かれたサムライ的ないさぎよさとは、結局何だったのか。そんなものは初めからなかったのだ。きっと誰もがそうだった。自分に責任があると思わなかった。そして多くの人が今もそう思っていない。3.11以後でさえも。


散文(批評随筆小説等) 異邦人日記から Copyright 動坂昇 2013-03-01 07:17:58
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